とかくに人の世は住みにくい

bach_well_tempered_clavier_gould.jpg「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。・・・」

ご存じ、夏目漱石「草枕」の冒頭である。善悪、明暗、表裏・・・、二元論で物事を捉えてしまうこの世界でうまくいきてゆくには、ひょっとすると「嘘」をつかなければならないのかもしれない。どちらが正しいのか?立場によって「正否」は変わるもの。見地を180度転回するとどちらも正しいのだから困る。政治、経済、社会、・・・、世の中で起こっているあらゆる問題を検証すると、すべてが「矛盾」の中にあるようなもの。

漱石は続ける。
「住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこに越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、画が出来る。人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり、向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりなお住みにくかろう。越す事ならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。」

こういう時、漱石がいうように、芸術に逃避するしかないのかな(今の世で言うなら「スピリチュアル」の世界か・・・)。それでも、音楽や絵画が「神なる世界」への懸け橋になるとするならそれはそれでよい。地に足をしっかり着け、精神世界ともつながる、そういうバランスが大切だ。

ところで、グレン・グールドは「草枕」の英訳版を愛読した。彼の性質からいって、現実世界は本当に住みにくかっただろう。幾種類もの薬を手放せず、人前での演奏活動から一切退き、スタジオ、否、自身の世界に閉じこもって音楽活動を続けた彼は、まさに「人でなしの国」に足を踏み入れた最初のピアニストだったのかもしれない。

グールドの弾くピアノは「癒し」である。聴く者を「寛容せる」代償として自身を「人でなしの国」に追いやった彼の音楽は「人の心を豊かにする」。

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻&第2巻
グレン・グールド(ピアノ)

実はグールドの弾くバッハの中で、長い間一番ピンとこなかったのがこの曲集。実際今でもリヒテルのもの(スタジオ盤&インスブルック・ライブいずれも)のほうがより好きなのだが・・・。特に「平均率」においては、濃厚な愛撫のようでいて、しかも「キラキラ」輝くような響きがどうしても欲しくなる。録音の関係からか、あるいはグールドのタッチそのものの影響からか、どうも色気のないポツポツ途切れるような弾き方が気になってしょうがなかった。そう、「エロス」が足りないのだと勝手に決めつけていた。でも、グールドがはまったという「草枕」の一節―「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い」という個所をあらためて発見した時、気づかされた。この平均率は極めて「中庸」なのだと。

もしもグールドがもう少し長生きし、「ゴルトベルク変奏曲」のように、「平均率」を再録音してくれていたら・・・。どんなレコードができあがっていたのだろう?


11 COMMENTS

雅之

おはようございます。
「癒し」や「スピリチュアル」といった言葉、軟弱に感じ、私はどちらかというと嫌悪感が強い言葉なんですが、皆さんお好きで、平気で使われていますよね。過度な「健康志向」もそうですが、全て自分さえ幸せになれればという、内向き志向の、自分勝手なエゴと、私には映ります。
>「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがゆえに尊い」
漱石のこの言葉も、眉唾物に思えます。だって早い話、クラオタになった人たちは、私も含め、皆、寛容の精神に乏しくなり、狭い価値観に閉ざされていく人が多いですもの。むしろ、心が貧しくなっていますよね。
今の日本は、政治家も公務員も、民間企業の人も、老いも若きも、自分と自分の属するコミュニティーさえ幸せならそれでいい、という人ばかり。
そうした私達のエゴが、日本を世界のどの国からも尊敬されず、国際競争力の弱い、取り柄のない国に、どんどん貶めているような気がしてなりません。
「世の中には偉い人、頭の下がる思いがする人という方は多い。
 自分の命をもかえりみず、火が燃えている家の中へ飛び込んだり、溺れている人を助けるために自らが結果として命を失ってしまうという人達だ。(中略)永年に亘って貧しい人々のために私財も投じ時間も費やし、何の見返りもないまま一生を過ごそうという人もいる。私のように我が強く、欲も人一倍強く、利己的に走る人間にとっては、全く信じられないような、生き方、行動、信条には感動を覚える。」という、将棋の米長邦雄さんの言葉に、だから、とても共感しています。
http://www.fesco.or.jp/sc_yonenaga.html
こんな気分になった時は、自閉症気味のグールドより、エドヴイン・フィッシャーによる、無理が無く自然で、ひとりよがりではないバッハを、無性に聴きたくなります。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/2801614
実際グールドは、ゴルトベルク変奏曲ほど、この曲集を評価していなかったようですしね。
最近聴き直して、改めてフィッシャーの偉大さに気付いています。カザルスに匹敵すると思います、このバッハは・・・。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
>クラオタになった人たちは、私も含め、皆、寛容の精神に乏しくなり、狭い価値観に閉ざされていく人が多いですもの。むしろ、心が貧しくなっていますよね。
>今の日本は、政治家も公務員も、民間企業の人も、老いも若きも、自分と自分の属するコミュニティーさえ幸せならそれでいい、という人ばかり。
まったく同感です。どんなことでも360度いろんな観点から捉えられるようになりたいものです。
米長邦雄さんの言葉もその通りですね。
なるほどフィッシャー盤ですか!!
>無理が無く自然で、ひとりよがりではないバッハ
そうそう、確かにグールドの「平均率」はひとりよがりなんですよね・・・。
フィッシャーの「平均率」はきちんと聴いたことがないのでこれを機にじっくりと聴いてみます。ありがとうございます。

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畑山千恵子

私はこの曲集、輸入盤で買いました。国内プレスより安く買えました。ピアノ、チェンパロ、いろいろ聴いてみると、グールドは観念的ですね。
人間グールドを見ると、母親から生涯、完全に自立できず、さまざまな面で社会不適応を起こしてしまったことが大きいといえます。心理学的な面から見ると、人格障害もあったようです。両親が神のように崇めてしまったこと、ナルシシズムが強かったこともあって、一種の人格障害にもなったようです。
グールドが亡くなる直前、1981年、1982年、2度にわたってグールドを訪問した作曲家で雑誌「ピアノクォータリー」の編集長ロバート・シルヴァースタインは、グールドのエゴイズムむき出しの言動を耳にしたようです。こうした面も見ると、グールドの人格障害という一面も見ていく必要がありそうです。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
こんばんは。
コメントをありがとうございます。
人間グールドは本当に複雑ですね。確かに「人格障害」もあったのでしょう。
>グールドのエゴイズムむき出しの言動を耳にしたようです。
果たしてどんな側面だったのでしょうか?興味深いです。

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畑山千恵子

さて、ご質問の件、オストウォルドの伝記(宮澤淳一訳)にあります。
「彼が私を友だちとみなしていると感じたことは1度もありませんでした。私は重宝がられていただけですよ、原稿を活字にしてくれるから。」
レイ・ロバーツは気が利かない、自動車の点検をきちんとしてくれなかったり、何かと問題を起こす。グレンはボブ(シルヴァーマンのこと)にそんな不満をもらしていた。
「そのときばかりは、彼に階級意識があるのを感じましたね。自分は最高級の人間だと思っていたのです。レイは彼の召使ではありませんよ。なのにそうであるかのような口ぶりでした。1度ニューヨークから電話をかけてきました。
[困ったことになった。レイが道で年配の婦人を2人引っ掛けてね。タッパン湖の警察から電話しているんだが、弁護士を呼んでくれないか?]」
(はねたのはグレンで、レイを身代わりにしたのではないかと私は思う)
これがロバート・シルヴァーマン(シルヴァースタインは私の誤りです。ごめんなさい)による、グールドのエゴイズムむき出しの言動です。グールドにはこうした一面もあったため、人格障害があったことは確かでしょう。
ぜひ、オストウォルドの伝記もお読み下さることをお勧めいたします。これは入手できます。

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畑山千恵子

マイケル・クラークソン「グレン・グールドの秘密の生活–天才の愛」の訳書を自分で出そうとがんばっていたものの、結局、版権を買い取った出版社が翻訳家に依頼してとわかり、がっかりしました。
ただ、翻訳家の中には音楽に疎い人物がいることも問題です。やはり、音楽に関するものは音楽に携わる人がすべきではないかと考えています。この4月に出たばかりでしたので、残念です。
グレン・グールドに関するのもでは、訳書のないものがあるため、そちらを出すことにしました。こうしたものはすぐに版元に連絡した方がいいですね。そうした面では勉強になりました。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
こんばんは。
残念ですね。
>ただ、翻訳家の中には音楽に疎い人物がいることも問題です。やはり、音楽に関するものは音楽に携わる人がすべきではないかと考えています。
同感です。ぜひ別のもので挑戦されることを望みます。
出版の暁にはぜひとも購入させていただきます。
わざわざありがとうございました。

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畑山千恵子

いろいろありがとうございました。今回版権を獲得した出版社は音楽書出版の実績がまったくない所で、いささか怪しいなという気がしています。
国立音楽大学の図書館へ行った折、この件を話したら、版権・翻訳権は1年間、訳している場合は1年以上有効だということです。そうしたこともわかって、これは怪しいな、と感じていた以上、詳しいことを相談してみることにしました。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
こんばんは。
わざわざ詳細のご報告までありがとうございます。
何かまた進展ありましたらお知らせください。

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