ハイティンク指揮ロンドン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」(1979.11録音)

遅ればせながら亀山郁夫さんの「ショスタコーヴィチ」論を読んでいるが、単なる好事家を超えた、いかにも学者らしい詳細な伝記に感動も一入。
「あとがき」に亀山さんは書く。

なぜこれほどにも魅入られてしまったのだろうか?
過去20年間、その根本の理由に辿りつけないまま、ほとんど絶え間なくショスタコーヴィチの音楽に親しみつづけてきた。そして彼の音楽に魅了されるということのなかに、何かしら不思議な心のプロセスがあることに気づかされた。それはほかでもない、一種の受苦の歓び、言いかえるなら、ある種の強制に近いかたちで彼の音楽を受け入れ、それを愛する心のプロセスである。最初に、つよい「違和感」がある。西欧古典の音楽に馴染んだ耳にとってショスタコーヴィチは、「異質」の文化以外の何ものでもない。しかしやがてその「違和感」への馴化が生じ、その帰結としてある日突然愛が生まれる。

亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P489

亀山さんのショスタコーヴィチとの出会いの原点は1994年6月のことだったらしい。
(意外に新しいことに僕は驚いた)
そういう僕も、ショスタコーヴィチに痺れたのは同じ頃だったと思う。僕の場合は、晩年のムラヴィンスキーが指揮した交響曲第5番ニ短調の映像だった。黒田恭一さんの、まさに襟を正されるような解説と共に、確かシューベルトの「未完成」交響曲と共に演奏されたミンスクでのコンサート実況だった。
(僕はつくづく降参した)
(なぜそれまでショスタコーヴィチの音楽を無視し続けてきたのか、大いに後悔した)

ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第5番(1983.11.20Live)

・ショスタコーヴィチ:交響曲第7番ハ長調作品60「レニングラード」(1941)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(1979.11.12-14録音)

第5番の拡大形のような「レニングラード」交響曲。
「証言」以降の全集として一世を風靡した(?)ハイティンク盤の洗練された(?)音楽が、今の僕の耳に心地良い。

1942年3月5日、交響曲第7番は市の文化宮殿で初演され、その模様はソヴィエト全土に放送された。クイブイシェフからの実況にもかかわらず、「こちらはモスクワ」の一言で放送が始まった。初演では、第1楽章の後に休憩が入った。ショスタコーヴィチがそれを許したのは、この交響曲が本来1楽章形式の構想をもっており、それ自体で独立しうる曲と考えていたためと思われる。演奏に先立って彼はこの交響曲の趣旨を、会場の聴衆たちや全国のラジオの聴衆に向かって次のように説明した。
「ヒトラーに対するわれわれの戦いが正義の戦いであることは火を見るより明らかです。・・・われわれは自分たちの文化、科学、芸術だけでなく、自分たちが作り上げ、築き上げてきたすべてのもののために戦っています。ですから、ソヴィエトの芸術家たちが、理性と蒙昧主義、文化と未開、光と闇の間にいま起こっている歴史的対決を傍観することは決してないでしょう。・・・この交響曲第7番をファシズムに対するわれわれの闘争、来るべき勝利、そして故郷レニングラードに捧げます」

~同上書P250

どこまでが作曲家の本音なのかはわからないが、「闘争から勝利へ」という図式が踏襲されていることは間違いないようだ。ハイティンクの演奏は、終楽章コーダにおける、第1楽章の「人間」の主題回帰のところで思わず感涙するほど素晴らしい。とても明快だ。

ハイティンク指揮ロンドン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード」(1979.11録音)

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