アバド指揮ウィーン・フィルのマーラー交響曲第4番(1977.5録音)を聴いて思ふ

という次第で、依然として僕は半々、第4の世界に生きているのだ。—これは僕のその他の交響曲とまったく違ったものだ。だが、そうでなくてはならないのだ。僕には同じ状態を繰り返すのはできない相談だ—そして人生が先へ進むにつれて、新しい作品ごとに新たな軌道を測量して踏破するのだ。だからこそはじめはいつも仕事に入っていくのがかくも難しいのだ。それまで身に着けた常套の手練手管は、役に立ってくれない。新たにもう一度、新しいもののために学びなおさなければならないのだ。かくして永遠の駆け出しというわけさ!以前はそれが苛立ちの元で、自分自身に不信を抱いたものだ。しかしひとたびわかってみると、それこそ僕の作品の真実性と永続性の証となったのだ。
(1900年8月18日付、ニーナ・シュピーグラー宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P261

創造者の葛藤、あるいは天才の苦悩というものか。
決して「鼻高」にならず、常に謙虚に自己批判の塊であることが、成長、進化の原則であることを僕たちは忘れてはいけない。

僕が最初に手にした、マーラーの言うこの特別な交響曲の音盤は、クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるアナログ盤。あれから40年近くが経過するが、この曲に関してはいまだに最愛の、座右の盤である。

たぶん、単なる刷り込みではないように思う。これほど感覚を刺激する音楽、また演奏があろうか。何より、第3楽章の、ゆったりとした、得も言われぬ天国的表現は、まるで死の浄化というのがこういうことを指すのではないかというほどの官能の匂いを呈しており、他にはない逸品。それに、終楽章独唱にメゾソプラノを起用したこともアバドの慧眼であろう、当時31歳のシュターデの歌唱の「暗さゆえの明るさ」が、大天使の鑑を描き切り、あの世とこの世の見事な統合を示してくれる点は、まるで崇高な能舞台の如し。もはや涙なくしては聴けぬ。

・マーラー:交響曲第4番ト長調(1900)
フレデリカ・フォン・シュターデ(メゾソプラノ)
ゲルハルト・ヘッツェル(ヴァイオリン)
クラウディオ・アバド指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1977.5録音)

マーラーの初期の交響曲はいずれも、初演当時、悲しいかな不評だった。
間違いなく「早過ぎた」のである。

この迫害された継子(交響曲第4番)はこれまでこの世でほとんど喜びを味わったためしがないのです。この作品を気に入ってくださったとは嬉しいかぎりです。
(1903年9月12日付、ユリウス・ブーツ宛)
~同上書P296

マーラーの恨み、辛み、聴衆に対する疑心暗鬼は根深い。

けっきょく、この作(交響曲第5番)もまた《第一》、《第二》、および《第四》と同じ運命をたどることは願い下げです。この3曲とも彼の地(ベルリン)で初演された折、さんざん叩かれて血まみれになるというひどい目に遭い、その結果他からも二度と「求められ」なくなってしまったからです。
(1903年9月23日付、アルトゥール・ザイドル宛)
~同上書P297

しかしながら、専門家の中には評価をするものはたくさんいたのだろうから、ひょっとすると、人種に対する土地的な迫害が潜在的にあったのかも。
死を得ての天上にこそ真の喜びがあることをマーラーはどこかで知っていたのか。

地上には天上の音楽と比較できるものは、何もない。
そして、すべてが喜びのために目覚めているのだ。

第2楽章での、ヘッツェルの独奏ヴァイオリンがまたセンス満点。

 

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