クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルのブルックナー第3番(1954.4録音)を聴いて思ふ

音をイメージで補うこと。
昨日の、アーロン・コープランドの衝撃は、音楽作品を享受することにおいて時間と空間を共にすることの重要さを知らしめるに十分なものだった。楽器の浮沈、あるいはバランス、最弱音と轟音の対比など、音楽の動きが手に取るように見え、何もかもが作品に対する理解度を高めてくれる。そこには、音盤からは得られない大きな感動がある。

星の数ほどある音盤が無意味だといっているのではない。
例えば、古い録音、しかも凄演の記録は、僕たちが理解力と想像力、あらゆる感覚を総動員して聴かなければならない分、それまでの経験の蓄積と、そもそもの耳のセンスが問われるゆえ、それはそれで感性を鍛え、感覚を磨くという意味でとても重要な役割を果たしてくれる。

古い録音を聴く醍醐味は、何といっても過去の巨匠の名演奏を、空想力を駆使しながら疑似体験できるところにある。それが実況録音ならなおさら。

ハンス・クナッパーツブッシュの場合、金管が咆え、弦楽器が唸るライヴ(録音)の爆演は、まさに聴き手の想像力をいつも以上に喚起させるものだ。

政変の際に彼(ブルーノ・ワルター)は解雇され、ほんとうに能力のある指揮者の欠落が明らかとなったので、クナッパーツブッシュをウィーンに招聘しなければならなかった。この男は金髪碧眼のゲルマン人ではあるが、音楽的な耳がなくとも、気質だけで音楽ができると信じている。クナッパーツブッシュのオペラを聞かねばならぬとすれば、苦痛でしかない。ヴァイオリンは金管楽器の音でまったくかき消され、オーケストラの音量のせいで歌手たちは死んだも同然にされてしまうため、オペラの歌はただの叫び声になり、歌手たちはおたまじゃくしのようにみえる。当の本人は、めちゃくちゃに身体をよじっていて、とてもみられたものではない。
奥波一秀著「クナッパーツブッシュ―音楽と政治」(みすず書房)P148

これは、ヒトラー総統のクナッパーツブッシュ評だが、どうやら彼が別の指揮者と勘違いしていたのではないかという指摘もある。しかし、確かに相当な音圧を伴うであろう金管の唸りについての評はあながち間違っておらず、個性的な演奏は、時には駄演も生み出すのだという(あるいは好みが両極に分かれるという)証拠にもなっていて興味深い。
その点、クナッパーツブッシュの場合、(毛嫌いした)スタジオ録音であってもそれは明らかにクナッパーツブッシュの音楽で、繰り返し享受するという意味では後世に残すべき永遠の逸品だと断言できるのである。もちろん、古い録音の分、相当の想像力や空想力を働かせることは必須だけれど。

・ブルックナー:交響曲第3番ニ短調(改訂版)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.4.1-3録音)

速めのテンポで颯爽と繰り広げられる交響曲第3番。
もしも彼のブルックナーを実演で聴けていたらと、想像するだけで身震いするほどのうねりと音の厚み(おそらく改訂版であるがゆえの魔性)。
一見あっさりと流される第1楽章の深み(コーダの猛烈なアッチェレランド!)。個性を封じ、自然かつ豊かな詩情を感じさせる第2楽章アダージョ。素朴な第3楽章スケルツォのトリオ。いずれもブルックナーを聴く愉しみを喚起するものだが、やはり極めつけは終楽章だろう(改訂による大幅なカットが残念だが)。徐に、ゆっくり歩みを始める冒頭の、何て魅力的な宇宙的音楽。そして激しく動く、前のめりのコーダの何て人間的な音!

驚くべきことに、クナッパーツブッシュは最小の身振りとその魅力ある人格によって、舞台とオーケストラ共にほとんど労せずして導くことができました。また全く独特で個性的な、真似のできない解釈によって、作品を完璧に演奏することができたのです。
(フランツ・ブラウン)
フランツ・ブラウン著・野口剛夫編訳「クナッパーツブッシュの想い出」(芸術現代社)P8

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