
天才たちの果敢な実験の精神に脱帽する。
現代の音楽は、いわば、それまでの既成概念の中でやることがなくなったときに起こったイノベーションであった。20世紀は戦争の時代だが、音楽を含む芸術全般でも敵対する相手との、あるいは自らとの終わりのない戦いが繰り広げられた「時」でもあった。そんなことを痛感した2時間。
音楽そのものに罪はない。そこには、永遠の光が、まばゆいばかりの光が、消えることなく常に存在する。どんな形であろうと、それは人々を癒す力に満ちている。ヴァレーズやメシアンや、また、シェルシやグリゼを聴きながら、僕はそんなことを思っていた。
エドガー・ヴァレーズの夢。「オクタンドル」が爆発するときの、絶えまないエネルギーの創発に僕は目が覚めた。そして、オリヴィエ・メシアンの「7つの俳諧」に、彼の見た日本の、繊細で芸術的な感性を発見した。あのころ、諸外国から見た日本はあくまで「フジヤマ、ゲイシャ、ハラキリ」が一般的だっただろう。それにもかかわらず、メシアンの眼は、メシアンの耳は、日本の原風景、ゆらぎの中にある大自然の移ろいを見事に捉えていた。カトリックの精神、信仰を超えたのだろうか、八百万の神々への崇敬の念が心地良く顕れる様。見事だった。
ちなみに、エマールのピアノは絶妙な色彩を持ち、鍵盤を跳ねるときも撫でるときも極めて美しかった。さすがである。
読響アンサンブル・シリーズ 特別演奏会
カンブルラン指揮「果てしなき音楽の旅」
2019年3月19日(火)19時開演
紀尾井ホール
ピエール=ロラン・エマール(ピアノ)
小森谷巧(コンサートマスター)
シルヴァン・カンブルラン(指揮)
・ヴァレーズ:オクタンドル(1923)
・メシアン:「7つの俳諧」—日本の素描(1962)
休憩
・シェルシ:4つの小品(1959)
・グリゼ:〈音響空間〉から「パルシエル」(1975)
15分の休憩を挟んで後半。
ジャチント・シェルシの「4つの小品」は、実に興味深い音楽だ。4つの曲は、それぞれ一つの音高のみで構成されているのだから驚く。よくもそんな発想が出たものだが、それぞれの楽器が同じ音を鳴らしても、倍音特性が異なるゆえ決して単調にならない。それどころか、終始自然の音を感じさせ、しかも、音楽的でもあり、時に官能の響きさえあったのだからすごい。この作品は間違いなく実演でないと真価はわかるまい。これが聴けただけでも今夜は大いに価値あるコンサート。
そして、ジェラール・グリゼの「パルシエル」は、仕掛けが実に多彩で、終始緊張感に満ちていた(おそらく演奏者も聴衆も)。ところで、終結直前の、奏者がそれこそ本物の雑音を奏でるシーンは、真剣勝負そのもので、最後にシンバル奏者が身構えたと思いきやホールは暗転、数秒の後照明が灯ったときの得も言われぬ安堵。僕は何だかその場に居合わせることができたことに感激してしまった。
今宵の紀尾井ホールの空気は、とても温かかった。
カンブルランの最後ということもあろう、何より熱気がすごかった。
現代ものの、それも極めて珍しい作品ばかりが舞台にかけられたにもかかわらず、会場はほぼ満員。
音楽とは、いつの時代のどんなものであれ人類の至宝だ。
天才たちの果敢な実験の精神に僕は脱帽した。