フィッシャー=ディースカウ ノーマン バレンボイム ブラームス 歌曲集(1978-82録音)を聴いて思ふ 

10月ともなれば世界には秋の気配が横溢する。
ただし、気候はまだまだ蒸し暑く、夏の虚ろな匂いすら漂う日。
自然の移ろいの素晴らしさ。
誰に命令されるでもなく、何らかの意思で、自然は自ずと動く。破壊と創造を繰り返すことが変化であり、変化こそ成長だとあらためて思う。

ジェシー・ノーマンが亡くなった。享年74。
まだまだ若い。
彼女の歌う音楽は、大抵とても素晴らしかった。
あの巨きな体躯から発せられる堂々たる声に、かつて僕は恐れをなした。

秋の夜長のヨハネス・ブラームス。
晩年の歌曲が美しい。
いわば枯淡の境地にある歌を、いまだ旺盛な歌手が表現するとどうなるのかという手本のような名唱。

果の花を知る事、極めなるべし。一切、みな因果なり。初心よりの芸能の数々は、因なり。能を極め、名を得る事は、果なり。しかれば、稽古するところの因おろそかなれば、果を果たすことも(難し)。これをよくよく知るべし。また、時分にも恐るべし。去年盛りあらば、今年は花なかるべき事を知るべし。時の間にも、男時・女時とてあるべし。いかにすれども、能にも、よき時あれば、必ず、また、わろき事あり。これ、力なき因果なり。これを心得て、さのみ(に)大事になからん時の申楽には、立合勝負に、それほどに我意執を起さず、骨をも折らで、勝負に負くるとも心に懸けず、手を貯いて、少な〱と能をすれば、見物衆も、これはいかやうなるぞと思ひ醒めたる所に、大事の申楽の日、手立を変へて、得手の能をして、精励を出だせば、これまた、見る人の思ひの外なる心出で来れば、肝要の立合、大事の勝負に、定めて勝つ事あり。これ、珍しき大用なり。このほどわるかりつる因果に、またよきなり。
世阿弥著/野上豊一郎・西尾実校訂「風姿花伝」(岩波文庫)P106

芸事に限らず、あらゆる生き様に通ずる本質。徹底的に練磨を続けることの重要さ。しかし、物事には栄枯盛衰が必ずあることを忘れてはならぬという訓え。求めて求めず、求めずして求める。余計な期待をかけないことだ。

ブラームス:
・ジプシーの歌作品103(ハンガリーの詩、H.コンラートによる)(ピアノ)(1887-88)
ジェシー・ノーマン(ソプラノ)
・5つの歌曲作品105(1886&88)
ジェシー・ノーマン(ソプラノ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
・5つの歌曲作品106(1885&88)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
・5つの歌曲作品107(1886&88)
ジェシー・ノーマン(ソプラノ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
・4つの厳粛な歌作品121(1896)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ダニエル・バレンボイム(ピアノ)(1978-82録音)

フィッシャー=ディースカウの声は相変わらず知的だ。しかし、最晩年の「4つの厳粛な歌」の、どこか冷静さを失った(醒めた?)、感情に偏る気配の歌唱が素晴らしい。例えば、第2曲「私はまた、日の下に行われるすべてのしいたげを見た」の静かな慟哭。あるいは、第3曲「ああ死よ、おまえを思い出すのはなんとつらいことか」の透明な、清き歌(ここではむしろディースカウの知的な声質が役立っている)。言葉がない。

この全集は、もちろんフィッシャー=ディースカウの妙なる歌唱を聴くためのものだが、しかし、そこに混在するジェシー・ノーマンの、熱量ある、まるで黒人霊歌を歌う時のような迫真の歌が、なかなか味わい深いのである。永遠の名盤だ。

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