
ティンパニ奏者ヴェルナー・テーリヒェンはフルトヴェングラーの死亡を告げるニュースが入ってきた時のことを回想している。
オーケストラは、彼の死がまったく信じられなかった。仲間数人と輪になって立ち尽くしていると、「彼がこの世にいないなんて・・・仕事を変えたいよ」と誰かが言った。その言葉は当時と同じように、今でも私の胸を打つ。想像してみてほしい―ブラームスやベートーヴェンや、すべての交響曲がまだ存在するのに、何百人もの指揮者がいるのに、突然、何もかもすべてが失われたように思えたのだ。
~ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P229
フルトヴェングラーが楽団にとって、否、ヨーロッパ楽壇にとって唯一無二の、かけがえのない存在であったことがこの言葉からもわかる。巨匠亡き後、カラヤンが常任指揮者に君臨するが、少なくとも50年代、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の発する音にはフルトヴェングラーの面影がまだまだ感じられた。
アンドレ・クリュイタンスの指揮する「エロイカ」にある激情と典雅な解放!
ドイツ的な内燃する魂が、大いなる翼を獲得し、自由に飛翔するような演奏とはこのことを言うのか。まるでフルトヴェングラーが指揮するかのような錯覚にさえ襲われる飛び切りの「エロイカ」交響曲。
かつてフルトヴェングラーはベートーヴェンについて次のように語った。
したがってベートーヴェンのみが持つ特質とは、テーマを創出する才能ではない。・・・彼の直観はそれをはるかに超えている。ベートーヴェンは、まるで運命の力、自然の法則で束ねられているような主題群を見つけだすことに見事成功している。その一連の主題はたがいに補い合いながら、創造者によってふくらみと力強さを与えられている。
~ジョン・アードイン著/藤井留美訳「フルトヴェングラー グレート・レコーディングズ」(音楽之友社)P150
フルトヴェングラーの再創造はまさにこの言葉の体現だが、クリュイタンスの精神にも大きな影響を及ぼしているようだ。いや、ひょっとするとこの時の演奏は、指揮者は(ある意味)何もせず、むしろオーケストラが主導して成し遂げたほどの代物(金字塔)なのかもしれぬ。
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
アンドレ・クリュイタンス指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1958.12.15-16&18-19録音)
フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーらしい「エロイカ」交響曲。理想的なテンポで麗しく奏される第1楽章アレグロ・コン・ブリオの貴さ。また、第2楽章「葬送行進曲」の荘厳な調べ。そして、第3楽章スケルツォを経て、まさに大地が震えるようなフィナーレ!
これは外観から言って、彼がこれまで書いた最大の作品です。ベートーヴェンは最近、私のために弾いてくれ、私は天地がその演奏で震えるに違いないと思います。彼はその曲をボナパルトに献呈することを熱心に望んでいますが、そうでないならば、ロプコヴィッツが半年それを所有して400グルデンを払いたいとしていますので、それは“ボナパルト”と名づけられるでしょう。
(1803年10月22日付ジムロック宛リースの書簡)
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P569
フルトヴェングラーのベートーヴェンが、時空を超えて色褪せず感動的なのは、「純粋な音楽形式と魂の進化を同期させている」からだ。彼はまた語る。
純粋な音楽形式と、魂の歩みを切り離して論じるのでは、ベートーヴェン理解のいかなる段階にも到達できない。重要なのは、霊的な要素を音楽的な側面から認識し、音楽的な要素を霊的な側面から理解することだ。両者は不可分のものであり、それを切り離そうと試みることは決定的な過ちである。
~同上書P151
おそらくクリュイタンスはそのことを知っていた。だからこそ彼の録音も同じく、いや、まるでフルトヴェングラーの魂が乗り移ったかのように感動的なのであろう。
岡本 浩和 様
おじゃまします。フルトヴェングラーの死に際しベルリンフィルの団員がこのような絶望感を感じていたことに感銘を受けました。オーケストラのメンバーにとって指揮者の存在の大きさを感じさせられます。フルトヴェングラーの死後3年以降の3年間に、立て続けにクリュイタンスによってベートーヴェンの交響曲全曲録音が行われました。常任指揮者はカラヤンなのになぜクリュイタンスが行ったのか知りませんが、短い間に一人の指揮者によって全曲が録音されたのには、オーケストラと指揮者の間によほどのシンパシーと信頼感があったのでは?と思われます。ここで岡本様が「まるでフルトヴェングラーの魂が乗り移ったかのように感動的」と書かれているのは、クリュイタンス贔屓にとってはうれしいことです。が、「ひょっとするとこの時の演奏は、指揮者は(ある意味)何もせず、むしろオーケストラが主導して成し遂げたほどの代物(金字塔)なのかもしれ」ないと言っておられるのには少し抵抗したいと思います。フルトヴェングラーとクリュイタンスは、スタイルが随分違うような印象を持っていました。この度、フルトヴェングラー1952年のベルリンフィルとの「英雄」と聴き比べてみました。各楽章ともクリュイタンスより1分から3分近く遅いテンポです。音は重く沈鬱で、音も時々長く引き伸ばされ、フルトヴェングラーの悲しみと嘆きが随所に刻印されているようです。クリュイタンスはテンポは概ね一定で、一度始まったら自然に推進し、解き放たれて自然に終わるような、正にここに書かれている「激情と典雅な解放!」「大いなる翼を獲得し、自由に飛翔するような演奏」がドンピシャリの名表現だと。ベルリンフィルのメンバーはどれほど残っていたのかわかりませんが、人員があまり替わっていないとすると、音色とか技術の高さなど、フルトヴェングラー時代とさほど変わっていないと思われますが、この颯爽とした、麗しく荘厳な一糸乱れぬ演奏は、指揮者のかなりのリーダーシップあってこそのものと思われます。クリュイタンスはフランス的と言われますが、ベルギー生まれで、音楽家であった父にドイツ語を仕込まれて育ったそうです。「ベルギー的」と言いたいところです。蛇足ですが、ベートーヴェンの祖父はベルギーからボンにやってきた、と読んだことがあります。(クリュイタンスの顔もこころなしかベートーヴェンに似ています。)贔屓の引き倒しになりそうなので、終わります。失礼しました。
PS.「フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーらしい」のはどのようなところですか?
>桜成 裕子 様
十人十色と言いますが、音楽の感じ方、捉え方も千差万別ですよね。
おっしゃる疑問、よくわかります。
あくまで僕自身の感覚的な問題なので言葉にするのが非常に難しいのですが、お答えを試みます。まず、桜成さんがお聴きになったベルリン・フィルとの1952年盤ですが、2種あります。12月7日ティタニア・パラストでのライヴ録音(Thara FURT1018)と12月8日同じくティタニア・パラストでのもの(Thara FURT1008-11)です。ご承知のように、フルトヴェングラーの場合、解釈の大枠はほぼ同じですが、この2日間でも初日のほうがテンポが概して速めで、演奏行為が実に一期一会のものだということを物語るくらい異なります。どちらの演奏か教えていただければ幸いです。
もちろんいずれの日の演奏も、ご指摘のように暗く沈鬱であることは間違いありません。その意味では、クリュイタンスとフルトヴェングラーでは造形感覚や呼吸、間の取り方、音色などなど、基本的に当然違います。ただ、僕にはやっぱり当時のベルリン・フィルの団員たちが引き摺っていたフルトヴェングラーへの憧憬や尊敬の念がどうしても聴こえるのです。ちなみに、クリュイタンスが何もしていないというのは僕の言い過ぎですね。(失礼しました)ただ、おそらく彼もフルトヴェングラーを意識していたようにどうしても思えてなりません。正確に並べて聴き比べたわけではなく、長年聴き込んできたフルトヴェングラーの演奏の根源にある何か「芯」のようなものが同じように聴こえると説明してわかっていただけますかね?
ちなみに、僕の持論ですが、造形やテンポや、そういう外的な、目に見える(耳に聴こえる)点を捉えて似ているとか似ていないとかはどちらでもよく、むしろ、その演奏の内奥に感じられる指揮者の心の動きと言いますか、(目に見えない)動機の発露と言いますか、演奏者の精神の動きをできるだけ感じて聴き入ることをモットーにしています(あくまで勝手な想像ですが)。
その意味で、フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーらしいと評したのは、記事中に引用したフルトヴェングラーの考えるベートーヴェンの本質をクリュイタンスも見事に捉え、それをフルトヴェングラーのかつての手兵であったベルリン・フィルと成し遂げているところに、そんな印象を強く持ちました。
ところで、外見は当然異なりますが、このクリュイタンスの演奏は、むしろフルトヴェングラーが戦時中にウィーン・フィルと残した放送録音盤(通称ウラニアのエロイカ)の内なる激情に近い印象があります(以前確か聴いていただいたと思います)。あれを初めて聴いたときのような感動がクリュイタンス盤に甦るのです。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=29520
岡本 浩和 様
懇切丁寧にお応えくださり、感激です!
フルトヴェングラー=ベルリンの録音はたくさんあるのですね!今回比べた演奏は1952年8月12日と解説書に記述があります。場所は書いてありません。
「造形やテンポ等、外的な、目に見える(耳に聴こえる)点は問題ではなく、むその演奏の内奥に感じられる指揮者や演奏者の精神の動きをできるだけ感じて聴き入る」との岡本様の姿勢、もう脱帽です。今の私には難易度が高過ぎです(遂に到達できずに終わるかもしれませんが。)クリュイタンスも見事に捉えてる「フルトヴェングラーの考えるベートーヴェンの本質」とは「霊的な要素を音楽的な側面から認識し、音楽的な要素を霊的な側面から理解すること」を通してこそわかることなのですね。「純粋な音楽形式と魂の歩みを不可分のものとして考えてこそベートーヴェン理解への道」とのフルトヴェングラーの言葉は、同じことをロマン・ロランも書いていたことに気づきました。「ベートーヴェンのような天才にとって、その音楽形式は無意識に魂の奥底と結びついている」というような言葉だったと思います。
どこかで、「ベルリンフィルがベートーヴェン全曲録音の指揮者として、カラヤンではなく、クリュイタンスを選んだ」という書き方がされているのを読みました。ベルリンフィルのメンバーは、フルトヴェングラーを失った今、その面影が消えないうちにベートーヴェン全曲の記録を歴史に残そうとして、その精神を最も体現できる指揮者としてクリュイタンスに白羽の矢を立てた、と考えると、岡本様の洞察は、的のど真ん中を射ていると言えますね。そう思うと、ベルリンフィルの人たちが発奮し、嬉々として演奏しているようにも聞こえます。
いずれにしても、岡本様にとって永遠であるフルトヴェングラーのベートーヴェンの感動がクリュイタンス盤に蘇るとは、クリュイタンス贔屓の身(刷り込みがクリュイタンスの「運命」だった)にとってはこの上なく嬉しいことです。私も「フルトヴェングラーの演奏の根源にある何か「芯」のようなもの」を探してみたいです。ありがとうございました。
>桜成 裕子 様
こちらこそいろいろと考える機会をいただきありがとうございます。
なぜ自分がそう感じるのか、それをアウトプットするのはなかなか至難なのですが、お陰でとても勉強させていただいております。
ちなみに、フルトヴェングラー&ベルリン・フィル盤は、たぶん1952年12月8日のものだろうと思います(8月12日の録音は存在しないので)。
引き続きよろしくお願いいたします。
岡本 浩和 様
08-12-1952を8月12日と読むとは、お恥ずかしいこと限りなしです。粗忽者にも程があります。遅い方の演奏ですね。失礼しました。
どうぞお見捨てなき様、お願いいたします。