カラヤン指揮ベルリン・フィル ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」(1967.12録音)

オーケストラの巧さという点で、これに優るものはない。
歌手もそれぞれに精緻な表現を心得ていて、一分の隙もない。
僕はもう少し泥臭い、人間的な表現を好むのだが、何とも室内楽的な、音響の計算された「指環」もたまには良いだろうと聴き始めたらはまってしまった。

カラヤンがザルツブルク復活祭音楽祭の上演と並行してベルリン・フィルと録音した「ニーベルングの指環」の筆舌に尽くし難い美しさ。単に外面的な美を追求したものでなく、音のドラマとしてのエネルギーの解放に舌を巻く。少なくとも映像を持たない音だけのオペラでのカラヤンの方法は、その意味において右に出る者はいなかろう。

こちらもやはり制作の裏側が興味深い。

カラヤンは、音楽祭の資金調達のために「制作用アンサンブル」を考案し、稽古と録音の通常の行程を逆さまにする。これまでのレコード会社は、全曲録音に際しては、コスト削減のために、大歌劇場でよく稽古を積んだ公演を優先的に採用していた。しかし今度のカラヤンのプロダクションは、まず、ドイツ・グラモフォン持ちで、新人歌手とスタジオで稽古してから、録音がなされる。この録音は、プレミエの3ヶ月前に、役を暗譜するために歌手たちにおこなわれる。カラヤンはまずエキストラを使って祝祭大劇場で演出を試し、数日前までやってこないソリストたちとは、立ち稽古で「合流する」のだ。オーケストラとはさらに磨き上げ作業がなされる。
そうして、実際の公演の時には、すでに録音を済ませたレコードが売り出され、ザルツブルクの店のショーウィンドウは、新譜の宣伝で溢れることとなった。カラヤンは、レコード会社にリハーサル費用を支払わせ、音楽祭はレコードの販売促進の場と化す。そこに、彼個人の帝国を他人の資本で築きあげる、見事な手腕があった—「私と仕事をしたい人は、財布を底まではたかねばならない」。

ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P276

ビジネスマンとしてのカラヤンの本領発揮というところだが、かつてのG.F.ヘンデル同様音楽的にも人後に落ちない演奏を披露したという意味で、カラヤンはやっぱり帝王だった。それだけ練磨を重ねた演奏が悪かろうはずがない。

・ワーグナー:楽劇「ラインの黄金」
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(ヴォータン、バリトン)
ロバート・カーンズ(ドンナー、バリトン)
ドナルド・グローブ(フロー、テノール)
ゲルハルト・シュトルツェ(ローゲ、テノール)
ゾルタン・ケレメン(アルベリヒ、バス)
エルヴィン・ヴォールファールト(ミーメ、テノール)
マルッティ・タルヴェラ(ファーゾルト、バス)
カール・リッダーブッシュ(ファフナー、バス)
ジョセフィーヌ・ヴィージー(フリッカ、メゾソプラノ)
シモーネ・マンゲルスドルフ(フライア、ソプラノ)
オラリア・ドミンゲス(エルダ、メゾソプラノ)
ヘレン・ドナート(ラインの乙女ヴォークリンデ、ソプラノ)
エッダ・モーザー(ラインの乙女ヴェルグンデ、ソプラノ)
アンナ・レイノルズ(ラインの乙女フロースヒルデ、メゾソプラノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1967.12録音)

聴きどころは、まずは、世界の始原を巧みに描写する前奏曲の荘厳な美しさ。そして、ありきたりだがやっぱり第4場、カーンズ扮するドンナーがハンマーを振るって雲を呼び集め、雷を起こすシーン以降、いわゆる「ヴァルハラ場への神々の入場」のシーン。ここから終結までの12分ほどは、鮮明な映像を髣髴とさせるカラヤンの真骨頂。何より「夕べに太陽の目が輝き」での、フィッシャー=ディースカウ扮するヴォータンの隙のない歌唱にため息が出る(かつて某音楽評論家が巧過ぎるとし、過ぎたるは及ばざるという印象だと評したが、巧いに越したことはない。これぞ真のヴォータンの姿だと僕は思う)。

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