カン・リョンウン指揮ピョンヤン・ユン・イサン・アンサンブル 尹伊桑 弦楽五重奏のための「タピ」ほか(1999.5録音)

久しぶりに尹伊桑を聴いた。
帯には「時代の荒波にもまれた悲劇の作曲家」とあるが、決して自分の人生が悲劇的なものであると認識している様子は本人にはない。もちろん人間である以上心の傷は負ったのだが、その体験をいかに生かすかを彼はいつも考えていた。そして、すべての体験を文字通り生かすべく、彼の作品は自ずと生まれたものばかりだ。そこには強烈なエネルギーがある。しかもそれは負のエネルギーではなく、現在の否定でもなく、未来への強力な希望に溢れる、正のエネルギーの音楽なのだ。

武満の問い。

ただ、尹先生の場合には、僕なんか想像もつかないほど厳しい人生を生きてこられましたものね。
「武満徹著作集5」(新潮社)P91-92

武満と言えど、常識的な目で他人を見ていることがわかる。尹はそれに対し、次のように答える。

それが、その当時は分からなかったんです。僕は監獄の中でも曲を書きましたけどね、監獄の中で、死刑を目の前にして書いていると、一体、自分がその曲全体のどの部分を書いているのかも分からなくなってしまうんですよ。ところが、あとから聴いてみると、ちゃんとなっているんですね。
書く習慣というのは大変なものだと思いましたよ。例えば長い間、車の運転をしている人は、なんぼ狭い道でも衝突しないで行けますね。そういう自動的な力が習慣にはあるんです。
それでも、あのことがあってから何年間かは、僕には自分の痛さを音楽に表す勇気がなかったです。あの事件を、そろそろ自分の中で整理して、何とか創作に移していけるような力が湧いてきたのは、たぶん事件から10年たったあたりからだと思います。自分が世界に参与する、人類の平和のために参与する。私のシンフォニーにはほとんどすべてにそういう意味がありますがね、そういうことが分かってきたのも、時がたって、自分自身から新しい力が湧き始めてからだと思うんです。

~同上書P92

事件とは、1967年の東ベルリン事件である。
それは、韓国中央情報部(KCIA)がヨーロッパ在住の韓国人教授・留学生を、韓国に対する北朝鮮のスパイ活動を行っていた嫌疑で大量逮捕した事件であり、後に事件そのものは事実であるものの、被疑者に対しての強引なスパイ罪適用があったとされた。

僕たち人間は誰しもシステムの中にある。つまり、作られたコントロールの中にあるのだということを忘れてはならない。さらに尹は語る。

僕は生死の境を経てから、人間の生活において、どこまでが政治であり、どこまでが政治じゃないのか、それを断言することができなくなりました。この世の中には、政治じゃないことはほとんどない。もちろんいわゆる「政治」というのは、政党人とか、政治を売って私腹を肥やすというような下らない政治かもしれませんが、私が今、言っているのはそんな政治ではありません。真の人間問題、社会問題に、自らの利害関係を度外視して、力を注ぐということ。これは堂々と人間のやるべき、最も人間的な義務じゃないかと思っています。
僕は自分が死に直面して、初めて目覚めたわけなんです。ですから僕の音楽も、今はそういう内容で書かれています。

~同上書P92-93

目覚めればこその傑作群。虚心に耳を傾ければ、真実が見えてくる。

尹伊桑作品集
・室内アンサンブルのための協奏的作品(1976)
・弦楽四重奏曲第5番(1990)
・フルート、ヴァイオリン、チェロのための幻想的小品(1988)
・弦楽五重奏のための「タピ」(1987)
・ソプラノと室内アンサンブルのための「夜よ、開け!」(1980)
リ・ヒャンスク(ソプラノ)
カン・リョンウン指揮ピョンヤン・ユン・イサン・アンサンブル(1999.5.10-12録音)

東洋的幽玄さを有した、ドイツ的堅牢な構成の力強い(室内アンサンブルのための)作品たちは、主として弦楽器の持つ魔力を縦横に飛翔させた「喜びと希望の音楽」。個人的には弦楽五重奏のための「タピ」の強烈な意志と精神力に心打たれる。

同時に、ドイツの女流詩人ネリー・ザックスの詩に曲を付した「夜よ、開け!」は、自身の恐怖体験を放下するためにアウトプットされたもののように思え、切なくなる。リ・ヒャンスクのソプラノが金切り、うねる。素敵なアルバムだ。

他人の判断などというのは何にせよ当てにならないもの。すべては自らが自分の眼で、耳で確かめるしかない。

過去記事(2013年10月3日)


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