
ジェルジー・リゲティが生涯をかけて成し遂げたいと思っていたことのひとつは、自身の能力の欠如をプロフェッショナリズムへと変換することだったらしい。
今のところ15曲できあがっている練習曲(私はもっと書こうと思っている)は、それゆえ私の欠落した能力の成果である。セザンヌは遠近感に支障があった。彼の静物画のなかのリンゴと梨には、今にも転がってゆきそうな気配がある。その不器用な現実描写においては、テーブル・クロスの皴は堅い石膏でできているように見えてしまう。しかしながら、セザンヌが色彩の調和や情緒に訴える配置、曲線、量感、そして力点の置換によって成し遂げたものは、なんとすばらしいのだろう。それこそ、私が成し遂げたいものでもあるのだ。
(練習曲集について)
欠点をいかに長所に昇華するか。
誰もがそのために生きているのではないかと思える。
吉田秀和さんの論を引く。
前々から言ってきたように、私は「セザンヌの絵では、何かがおかしくて、よくわからない」と気づき、そう気づくとともに、自分がそれにますますひきつけられるのを意識するようになったわけだが、こうなる最初のきっかけは、幾つかの静物画をみたせいだった。
私は、そういう静物画の見られる場所を訪ねまわり、何回も何回も眺めてきた。そうして、何が「おかしい」と自分が思うのか、それをだんだんはっきりさせられるようになってきた。それにつれ、セザンヌの静物画は、私信的性格を強め、彼がここで、ある重要な通信を、見るものに送っているのを知るようになった。と同時に、その「通信」は、個人的な領域のものでありながら、一般的なものとしての性格を帯びてくる。換言すれば、私は、ここでもまた彼の静物画を眺めることを通じて、「絵画とは何か?」について。目を開かれるという経験を重ねる。
~「吉田秀和全集18 セザンヌ物語」(白水社)P262-263
こういう違和感が気づきに昇華されたとき、そして、それを命題にして作家の真意を探ろうとするとき、そういう姿勢こそ吉田さんの真骨頂である。吉田さんは「セザンヌの静物画」という章において次のように締める。
いずれにせよ、セザンヌは、独自に開発したタッチを自在に操って、思うがままに色彩の花園を展開する。絵画は、彼のいうところのsensations colorantesの花咲く場と化す。
こういう絵を見ていると、私は、セザンヌ—この驚くべき創造的芸術家—が、享受した創造の喜び、いや悦楽の時間を想像しないではいられない。そして、その喜びが、この絵のように、ほんの一握りの「ものたち」を相手に得られたというのが、彼の静物画を見る私の慰めにもなる。というのも、のちにふれるけれど、彼には、こういう静物画がある一方、逆に、華麗な画面でありながら、深い苦悩や濃い不安の使者であるような絵もあるのだから。
~同上書P279
天才の筆致はすべてを包含する。
(善悪、陰陽、世に存在するすべてを一つにする)
久しぶりにローラン・エマールのリゲティを聴いた。
僕も年齢を重ねたせいか、音楽の多様性と内なる静けさに対する爆発的音響の美しさを以前よりも一層体感できた。

エマールの実演は何度も聴いているが、どんなときもその集中力と、そこから放散される音楽の爆発的エネルギーをより効果的にする「タメ」の鋭さ、つまり呼吸や「間(ま)」がどんな作品においても絶妙で、現代のピアニズムの極限を示してくれるのである。





スイスはラ・ショー・ド・フォンの音楽ホールでの録音。
練習曲のそれぞれには標題が付されていて、リゲティ自身の楽曲解説がその意味を想像するのに役に立つ。例えば、第1巻第5曲「虹」についてはこうだ。
ジャズ・ピアノの技法も私にとっては大きな位置を占めている。ことに、セロニアス・モンクとビル・エヴァンスのそれである。第5番〈虹〉はほとんどジャズ・ピースと言えよう。
(ジェルジー・リゲティ/長木誠司訳)
~SRCR2130ライナーノーツ


ただし、リゲティはあくまで「練習」のための作品だと釘を打つ。
それゆえにジャズでもなければ、ショパンでもドビュッシーでもなく、過去のどんな音楽にも当てはまらないのだとつけ加える。何らかの枠に当てはめるのは難しいのだと。
その単なる「練習曲」をエマールは見事に音化する、否、映像化する。
これほど知的で、色彩豊かな演奏があろうか。
本盤においては第3巻は「白の上の白」が最後になっているが、後にエマールは、その後2001年まで続く「イリーナのために」、「息を切らして」、「カノン」も録音している。