クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 「レオノーレ」序曲第2番ハ長調作品72aほか(1954.3録音)

《レオノーレ》初演は1805年11月22日のことであった。
初演の反響は以下のとおりだ。

フランス人たちのヴィーン侵入はヴィーン人たちにとって初めの内はまるで慣れることのできないもので、何週間かまったく異常な静けさであった。宮廷、宮廷の各部署、主な大土地所有者たちは立ち去っていた。ふだんだったら馬車の絶え間ない騒音が通りを押しのけているところ、一台の車がこっそりと通るのも滅多に聞かれない。・・・劇場も初めの内はまったく空っぽで、だんだんようやくフランス人たちが舞台を訪れ始め、そして現在も観客の大多数を形成しているのは彼らである。最近は重要な新作はほとんど上演されなかった。新しいベートーヴェンのオペラ《フィデリオ、または夫婦の愛》は好まれなかった。それは何回かしか上演されず、第1回の上演後はまったく空っぽであった。音楽も実に期待はずれで、玄人も愛好家も当然にそう思った。
(1805年12月26日付「フライミューティゲ」紙)

この記事を参考にすると、(ナポレオン軍の)占領が始まった直後に上演を予定通りに強行という判断の悪さが決定的である。上演許可申請がいったん却下されたことで順延となり、予定日が占領直後にずれ込んだという運の悪さ。入りは最悪で、観客もドイツ語を解さないフランス将校たちであった。
大崎滋生著「史料で読み解くベートーヴェン」(春秋社)P244

現代の視点から見ると、それこそ天意が働いていて、失敗があったがゆえに「レオノーレ」改訂稿が生み出され、また最終的に「フィデリオ」が成立したわけだから悪運というより幸運だったのではないか、そんな風に僕は思う。
(ベートーヴェンは楽聖なのだから)

ベートーヴェンの、みまごうことのない才能のこれまでの軌跡を注意深く冷静に見てきた者は、この作品にはまったく違うものを見ざるを得なかった。
(1806年1月8日付、ライプツィヒの『総合音楽新聞』)

そして作品に対する酷評が延々と続く。ベートーヴェンは早々に、改訂に乗り出した。
~同上書P245

時代が早過ぎたのだろうと個人的には思う。

改訂稿の上演は1806年3月29日土曜日、アン・デア・ヴィーン劇場においてであった。

「第2稿は・・・好意的に受け入れられた。にも拘わらず舞台に載せることは第2回の後、ベートーヴェンが支配人とのいさかいによりスコアを引っ込めた」。
~同上書P246

その後、戦禍が激しくなるにつれ、劇場も立ち行かなくなり、いよいよオペラ公演が不可能になっていく中で、「レオノーレ」を再び舞台に載せることはあり得ず、再演はナポレオン戦争が終結する以外になくなった。

ちなみに、「フィデリオ」が上演され、大成功を収めるまでの間に、プラハで「レオノーレ」の上演計画が持ち上がったらしい。(何らかの事情で中止になったのだが)

彼はそのために新しい序曲(レオノーレ序曲第1番)を作曲したと思われ、1807年代の年代記入のある校閲筆写譜が遺されている。それは死後、遺品の中に発見された。
~同上書P248

レオノーレ」序曲第1番は実に素晴らしい曲だと思う。
特にこのクラウスで聴くそれは優雅で喜びに満ちる、まさに「夫婦の愛」を表現するに相応しい名曲だ。

ベートーヴェンは4連続コンサートの終了を待たず、宮廷劇場詩人トライチュケに台本の改訂を依頼し、再改訂に乗り出した。そして《レオノーレ》は《フィデリオ》となって、1814年5月23日にケルンテン門劇場で初演を迎える。2日目の26日の上演から、舞台はもうひとつの宮廷劇場であるブルク劇場に移された。

《フィデリオ》はその後、翌年末まで32回の公演を重ねていく。9月末から開催されているヴィーン会議期間中には、各国の王侯貴族が観劇する機会も設けられた。その結果、ベートーヴェンのオペラ作曲家としての名声は全ヨーロッパ的に高まる。
~同上書P255

歴史を振り返るに、「レオノーレ/フィデリオ」の不遇は、様々な要因が絡んでの外的要因、そして、大衆に受容されるだけの内容の解りやすさが不足していたことなどが見事に重なったことによることがわかる。
ベートーヴェンの音楽は「未来音楽」だった。
それゆえに、今となっては「フィデリオ」よりも「レオノーレ」の素晴らしさが実感できる。

ルネ・ヤーコプス指揮フライブルク・バロック・オーケストラ ベートーヴェン 歌劇「レオノーレ」(1805年第1稿)(2017.11.7録音) 歌劇「レオノーレ」(1806年版)を聴いて思ふ 歌劇「レオノーレ」(1806年版)を聴いて思ふ 歌劇「レオノーレ」第1稿を・・・ 歌劇「レオノーレ」第1稿を・・・

クレメンス・クラウスの最後の録音は、1954年3月、デッカへのベートーヴェン唯一の(大幅に改定された)オペラのための4つの序曲だった。当時彼は心臓病と診断されており、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートでは、緊急時に備え、医師が舞台に同席していた。1月下旬にはロイヤル・オペラに最後の出演を果たし、タイムズ紙の評論家がクラウスの指揮を、「オーケストラには決して無理をさせず、冒頭から軽やかさを保ち、同時に余分な強調を避け、オペラに独自の勢いをもたらした」というような、今日でも通用する表現で褒め称えている。
ちなみに、最後のメキシコ公演を締めくくる「レオノーレ」序曲第3番の演奏には、そのような控えめさなく、幸いなことに、荒々しさと激しさがあったという。

(ピーター・クァントリル)

「フィデリオ」「レオノーレ」にまつわる4つの序曲の名盤には、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団のものがあるが、今の僕はむしろクラウスのこの典雅な響きの、それでいて実に客観的かつ美しい音色を保つ最後のデッカ録音を好む。

クレンペラー指揮フィルハーモニア管 ベートーヴェン レオノーレ序曲第2番(1963.11録音)ほか クレンペラーのベートーヴェン クレンペラーのベートーヴェン

ベートーヴェン:
・「レオノーレ」序曲第1番ハ長調作品138
・「レオノーレ」序曲第2番ハ長調作品72a
・「レオノーレ」序曲第3番ハ長調作品72b
・「フィデリオ」序曲ホ長調作品72
クレメンス・クラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.3.22-23録音)

ウィーンは楽友協会大ホールでのセッション録音。
発展よりも世間に迎合し、退化する「レオノーレ」あるいは「フィデリオ」。
序曲も第3番よりむしろ大胆さと粗削りな印象を醸す(この方がむしろ自然に近く、第3番はある意味人工的だ)第2番の方が、いかにも尖鋭的な、革新的なベートーヴェンの本懐であり、クラウスの演奏も第2番が秀でている。

2 COMMENTS

タカオカタクヤ

クレメンス・クラウス。録音方式がモノーラル時代のうちにお亡くなりになった為、凄く『昔の指揮者』の感じが在りますけれども、実際はシャルル・ミュンシュやカール・ベームと同世代のお方なのですね。
何か、ピアニストに例えますと、ワルター・ギーゼキングとヴィルヘルム・ケンプの間柄を、連想してしまいます。
オーストリアの指揮者としては、録音レパートリーに、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスが皆無で、ヨハン・シュトラウス一族のワルツとポルカ、リヒャルト・シュトラウスの交響詩を、Decca社に任されていたお方との印象が強いですが、『白鳥の歌』は意外にもベートーヴェンのフィデリオにまつわる序曲だったのですね。
過日、『栄光のウィーン・フィル』(オットー・シュトラッサー著、ユリア・セヴェラン訳)を捲ってまして、クラウスのメキシコ国立交響楽団への客演と彼の地での急逝に関し、以下の記述がございました。
彼はメキシコからの招待に少しも応じたい気持ちを持たず、それを断わるために、高額の謝礼を要求したのだと、そういう話を私は聞いた。ところが運命は皮肉である。メキシコ人たちは何とそれに応じたのである。そしてメキシコ・シティ、そこは彼の血圧では耐えがたい高地なので、彼は1954年5月16日に心臓の発作で死去したのである。
それより少し前の、再建なったウィーンシュターツオパーの音楽総監督のポストをめぐっての暗闘で、結局はカール・ベームに敗れ、その心労と憤激の気持ちも、心身への悪影響を及ぼしたかも知れませんけれども…。

返信する
岡本 浩和

>タカオカタクヤ様
はい、クラウスは録音が決して多くなく、おっしゃるように独墺系の重要な作曲家の作品が抜け落ちているのが痛恨です。
それでも最後にベートーヴェンの序曲集を遺してくれたのはありがたいことです。

メキシコシティでのエピソードは僕もどこかで読んだ記憶があります。
(「栄光のウィーン・フィル」ではないですが)
高額のギャラを要求して回避しようとしたことがそもそものミスですね。
端から「ノー」と言えれば客死もなかったかもしれません。

そう考えると、国立歌劇場総監督におけるベームとの争いでの心労も、物事を直接的にはっきりと言えないであろう性格が災いしたのかもしれません。運命は変えることができても宿命は変えられません。ただし、もう少し長生きしてもらっていたら20世紀の音楽史、レコード史は変わったかもしれませんね。

返信する

岡本 浩和 へ返信するコメントをキャンセル

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む