昨日のモルゴーア・クァルテットは心底良かった。
音楽のジャンルの垣根をとってしまうだけでこれ程にも雰囲気、状態が変わるものなんだとあらためて驚かされた。
僕自身がコンサート最中から相当に興奮したというのもあろうが、昨日のブログ記事やFacebookなどでもいくつか反応をいただき、そういえば僕の周辺にはプログレ好事家も結構多いことに気がついた(コンサートにお誘いすれば良かったと少々後悔)。
何がそんなに良かったのだろう?一晩おいてもう一度考えてみた。
ひとつ、演奏者の今回のイベントへの想いが半端でないこと。そして、そのことがコンサートの現場からもそのすごく伝わってくるという事実。
ふたつ、そこに集まる音楽ファンの想いも異様なほど。おそらく僕と同年代、あるいはそれ以上の方々が大半を占めていたと思われるが、ともかくひとりひとりが真剣だったということ。
みっつ、決して畏まらないイベントだったが、演奏中の集中力(それは演奏者も聴衆も)が素晴らしかった。息を飲むほどの静寂(それくらい演る方も聴く方も本気だったということ)と音楽が終わった後の気持ちいいほどのロック的歓声と拍手の解放感!何とメリハリの利いた、お行儀良い場だったか。
そして、よっつ、室内楽ホールでの、つまり小空間での身近でインタラクティブなコンサートだったこと。
懐かしさと喜びと。プログレッシブ・ロックが僕の青春の1ページであったことを再確認。
そして荒井さんもおっしゃっていたが、5大ブリティッシュ・プログレ・バンドの名作が一堂に会したことがなにより画期的で感動的だったし(そもそもプログラムを見た時点で僕の周囲のプログレ・ヲタクたちは皆のけ反る・・・笑)、次回はイタリアン・プログレを演ろうかと半ば冗談、半ば本気でおっしゃっていたことに皆が一様に反応していたことが面白かった。願ってもない。これはぜひとも!!
さて、一夜明けた本日、キング・クリムゾンのコンピレーションを聴く。
「21世紀の精神異常者」の様々なバージョンを収めた”Schizoid Man”と題する1996年リリースの音盤。
久しぶりに並べて聴いてみると、キング・クリムゾンのそれぞれの時期の醍醐味と、その変容がもたらす意味が一瞬で垣間見られて興味深い。特に、一般的にはあまり評価の高くないボズ・バレルがヴォーカルをとる時期の、そう、問題作”Earthbound”に収録されていた、あのブルース・バージョンの「スキツォイド・マン」の即興の革新性が心を打つ。
ひょっとするとあの頃は、フリップの独裁が通用せず、逆にバランスが取れていたのではなかろうか(オリジナル・クリムゾンは別にして)、そんなことを考えさせられた。リーダーの意志を無視して、他のメンバーがやりたいようにやる、そんなことがまかり通ったお蔭で、キング・クリムゾンらしくないクリムゾンが表出した、そんな瞬間だったのかも(保守的クリムゾン・フリークからしてみるととんでもない事実)。
おはようございます。
荒井英治さんの言葉
「ショスタコーヴィチとロック、音楽に通底しているスピリッツは同種だ。それは人間が人間らしくありたい為の叫びであり、20世紀の社会と深く結びついた、避けることが出来ない音楽なのだ。」
>フリップの独裁が通用せず、逆にバランスが取れていたのではなかろうか
>リーダーの意志を無視して、他のメンバーがやりたいようにやる、そんなことがまかり通ったお蔭で、キング・クリムゾンらしくないクリムゾンが表出した、そんな瞬間だったのかも
民主主義の理想って何でしょうね。
>雅之様
こんばんは。
そもそも「民主主義」ということ自体が非常にハードル高いのかもですね。
キング・クリムゾンの例を挙げるまでもなく、歴史的に見ても時には独裁も必要ですし、リーダー失脚というイベントも要りますし。
人類が真の意味で覚醒しない限り「民主主義」というのはないのかも。
いや「民主」という言葉が間違ってるかもとも思います。
人々が傲慢にならず「自然」に身を委ねて互いに助け合うのが理想だと最近は思います。
そう簡単ではないでしょうけれど。
しかしながら、いつも議論になりますが芸術はそれでは生まれませんね。
やっぱりぶつかりと和合と、緊張と弛緩が要ります。
キング・クリムゾンの音楽はまさにそのことを体現しているのでは(少なくとも69年~74年のクリムゾンは)