ワーグナーの交響曲

ワーグナーは、ベートーヴェンが第9交響曲で到達した世界をより具現化すべく「ムジークドラマ」というものに照準を合わせ、生涯を総合芸術に懸けた。ベートーヴェンの最後の交響曲の世界観は、まさに人類が兄弟であり、ひとつにつながるべきことを謳ったものであり、音楽こそがそのことを可能にする手段だと訴えかけているのだと思う。しかし、楽聖の想いとは裏腹に、この交響曲には「歌」、すなわち「言葉」がある。「言葉」を介した時点で人と人との間には「壁」が生じる、あるいは国境も生まれる。
「言葉」を通じて「人類皆兄弟」ということを掲げながら、その「言葉」が人々を分断するのである。何という矛盾!!その意味では、ワーグナーの楽劇も然り。作曲家自身が書いた脚本が常にそこにはあり、その解釈について後世の学者たちが様々論じてきた。例えば、「パルジファル」における最後の「救い主に救いを!」という意味深な台詞・・・。「言葉」があるがゆえの難解さとでもいうのか・・・。それでも実際のところワーグナーは楽劇において音楽の優位性を説く。「言葉」はあくまで付随物だと。しかし、彼の場合舞台芸術というものを自身の思想を体現する媒介だと想定した以上、音楽と言葉を絶対的に統合しようとしたが、それは最後まで叶わなかった。

僕は思う。「言葉」のない音楽こそが人と人とをひとつにする道具になり得るのではないかと。そして若きワーグナーは初期、そういうものを目指したのではないのかと。実にワーグナーが1832年、すなわち19歳の時に生み出した交響曲を聴いてそんなことを考えた。

15歳の少年の、初めてベートーヴェンの交響曲を聴いた時の感動とはいかばかりだったのか。そして、数年後、楽聖の芸術を追随するべくライプツィヒ大学在学中の若きワーグナーはひとつの作品を認める。この音楽を聴いたクララ・ヴィークは、ロベルト・シューマンに「ベートーヴェンの第7交響曲にそっくりだ」と手紙に書いた。野心溢れるリヒャルトは確かにベートーヴェンを超える音楽を創造しようと必死だったのだろう。いや、というより、この偉人を超えられるのは自分だけだという自負もあったはずだ。しかし、その2年後に2つ目の交響曲を書き始めながら途中で放棄し、もはや以降、この分野に手を染めることはなかった。

ワーグナー:
・交響曲ハ長調
・ジークフリート牧歌
ハインツ・レーグナー指揮ベルリン放送管弦楽団(1978.10.31-11.4録音)

音楽だけでベートーヴェンを超えたいと思ったものの、結局それは無理だと彼は悟ったのでは?自尊心の強いリヒャルトは勝てない勝負はしないとみた。であるなら、ベートーヴェンが得意としなかった分野で勝負してやろうと。そして、その後彼は自身の在り場所を見つけることになる。「舞台総合芸術」などといういかにも仰々しい名前を付けて。

とはいえ、もしワーグナーがそのまま純粋器楽曲の世界を極めていたらどうなっていたのだろう?このハ長調のシンフォニーは実に傑作だと僕は思う。第1楽章冒頭の和音の確信に満ちた歩みは堂に入っており、第2楽章の何とも哀しげで憂いに満ちた音楽はいわゆるロマン派の嚆矢となるようなものだ。

もうひとつ、付録で収録された「ジークフリート牧歌」。愛する妻コージマの誕生日に捧げられた小さな管弦楽曲の妙なる美しさ。これこそ「女性の愛による救済」の象徴。愛に溢れ、静けさに富み、聴く者を夢の中に誘う。こういう音楽こそが人と人との壁を真に取っ払うのでは?やっぱりワーグナーには純粋器楽曲の世界でももっと名作を残してほしかった・・・。

 


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