フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのグルック「アルチェステ」序曲(1951.9.4Live)を聴いて思ふ

furtwangler_bpo_1951-1953290ギリシャ悲劇の象徴たるクリストフ・ヴィリバルト・グルック。そして、生物の如く蠢く音楽。
グルックの作品はどれもが優れたものであり、どんな解釈でも、どんな演奏でも包括するだけの懐の深さがある。明快かつ軽妙な、あるいは洒落た音調で奏されるグルックもグルックであり、例えば、フルトヴェングラーの指揮する悪魔的で重厚な、ワーグナー以上にワーグナー的なグルックも、この人の本懐なのである。
それゆえに、彼の作品は抒情性も受け容れるし、また濃密な官能性も十分に受容するのだろう。これほど人間の感情を揺さぶる音楽はなかなかない。

クロード・ドビュッシーはフランス音楽の迷走(?)をグルックのせいにした。
ドビュッシーによる非常に皮肉めいたグルックへの公開状を読んで、この人もある一方向的な見方しかできなかった料簡の狭い(?)人だったのだろうかと少々幻滅した。いや、であるがゆえの創造性、独自性は認める。それでも、独墺音楽の堅牢さを否定するドビュッシーの懐の浅さというのは受け容れ難いものだとも思うのである。

ラモーは、あなたとはくらべものにならぬくらい、もっとギリシャ的でした(お腹だちにならないでください。もうじき止めます)。そのうえ、ラモーは抒情的でした。これが私どもには、あらゆる観点からぴったりくるのです。私どもの音楽は、もういちど抒情的になるため一世紀を待たなくてもよいように、抒情的なままでいるべきでした。
あなたを存じあげたことから、フランス音楽は、ヴァーグナーの腕のなかにおちこむという、ことに望外な幸をひきあてました。つまり私は、あなたがいらっしゃらなければそんなふうになりはしなかっただろう、そればかりか、道を迷わせるのがやたらとおもしろくてしようがない人たちに、フランス音楽がああもたびたび道をたずねることにはならなかっただろうと、想像したいのです。
平島正郎訳「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)P268-269

おそらくドビュッシー存命当時から、濃厚な、あまりにエロティックなグルック解釈が流行だったのだろう。それですら飲み込むグルックの器の大きさと僕は信じたい。
そのことは、フルトヴェングラーの「アルチェステ」序曲を聴いても、「アウリスのイフィゲニア」序曲を聴いても変わらず証明される。

・グルック:歌劇「アルチェステ」序曲(1951.9.4Live)
・オネゲル:交響的楽章第3番(1952.2.10Live)
・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68(1953.5.18Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

「アルチェステ」序曲の序奏部から、意味深い慟哭の叫びが聴こえる。翌日のコンサートのためのゲネプロだそうだが、聴衆がいないからこその客観性と、ホールでの実演さながらの主観性を兼ね備えたフルトヴェングラー一世一代の名演奏であると断言する。
主部における推進力と、感情的に揺れるテンポがこの歌劇のドラマ性を見事に表現する。

ところで、オネゲルの「交響的楽章第3番」はフルトヴェングラーに献呈されたものだが、激烈で前のめりの音楽はまさにフルトヴェングラー&ベルリン・フィルに演奏されることを想定して書かれたものだと一聴瞭然。演奏頻度の決して高いとは言えない作品だが、フルトヴェングラーはその音楽を確実に自分のものにしているようで、いかにも堅牢ドイツ的。
ドビュッシーがもしこの作品を耳にしていたら何と評したことだろう?
ドビュッシーの思想ですら一種嗜好に過ぎない。喧嘩は止めにして、すべてを認めれば良いだけ。
フルトヴェングラーのブラームスが哄笑する。
第1楽章序奏ウン・ポコ・ソステヌートの強烈なエネルギーにひれ伏し、主部アレグロの怒涛の波状攻撃。そして、第2楽章アンダンテ・ソステヌートの(フルトヴェングラーの他の度の演奏よりも)粘る濃密な官能。
さらには、愛らしい第3楽章間奏曲を経て奏される終楽章アダージョの(録音を超えて迫る)デモーニッシュな轟音に度肝を抜かれ、主部アレグロ・ノン・トロッポの第1主題に涙する(コーダの解放は、天の声にも優る)。

 

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