ニルソンのヴェルディ歌劇「アイーダ」名場面集(1963.4録音)ほかを聴いて思ふ

nilsson_verdi_aida_scene531ビルギット・ニルソンの歌う「アイーダ」名場面集。
ほとんどワーグナーのようなヴェルディだが、そもそも音楽の方法に「らしさ」を付与するのは後世の人間の勝手な思い込み(思想)で、稀代の名音楽家のものとなると、そんな概念を越えて胸に迫る何かがあるものだとひとり合点した。

第4幕第2場のシェーナ「死の運命の石が私の上に閉ざされた」における、ルイジ・オットリーニ扮するラダメスの思いのこもる静かな歌。応えるニルソンのアイーダの内なる情念。何という張りのある美しい声。
あるいは、第3幕のアモナズロとの二重唱「薫る森林を、爽やかな谷間を」の、父を思う娘アイーダの可憐な声と、恋人ラダメスから出兵するエジプト軍の進路を聞き出すよう強要されたときの驚愕の声、そして祖国への忠義を決意した後のアイーダの哀しみ含まれる強さの声の七変化はニルソンの真骨頂であり、聴きどころ。

若い頃、僕はオペラが苦手だった。
特にイタリア歌劇の、必ず誰かが死ぬことになるお決まりのストーリー展開がとにかくわざとらしく好きになれなかった。それと、妙に明朗で主張の強いプリマの声にも違和感があった。
しかしながら、今となってはそれも随分昔の話。
これほど面白いものはないと思う。
何より大作曲家がこぞって腕を競うように書き上げた音楽付物語が悪かろうはずがない。古今東西、音楽の範疇においては屈指の総合芸術。ならば愉しんだ者勝ち。

そういえばその昔、「レコード芸術」のレコード評巻頭言は村田武雄さんによるものだった。
1981年11月号は「はじめて見たオペラ」と題するもので、そこには、同年6月3日にウィーン国立歌劇場で鑑賞したジュゼッペ・シノーポリ指揮によるヴェルディの「アッティラ」に感動した話から、大田黒元雄さんが「アッティラ」を「ぱっとしないオペラで駄作だと」決めつけたことにも触れ、アリアや重唱を「聴かせるように」演奏するのも確かに難しいだろうが、(特に日本の)観客にもある意味責任があって、それこそ「オペラの聴き方」をもっと勉強するべきで、それらを受容できる素地をこれからはもっと作っていかなければならないという論が展開されていて、真に面白い。

イタリア人やウィーン人は、オペラを愛するとともに、そのオペラの中のいくつかのアリアに通じていて、それを聴くために歌劇場に行くのだ。だから好むアリアのうまい歌唱に接すると20分でも30分でも拍手喝采してオペラを進行させない。それをきらったトスカニーニありまたカラヤンありはするが、実はオペラを好んでいる人々の心ではそれを求めてゆくのが他の器楽曲からはえられない最大の楽しみなのである。
それを今度のスカラ座オペラでは禁じていたが、アバドやクライバーなどが主張したのかもしれないが、おそらくそうではあるまい。演奏会を主催した側から出たのではなかろうか。オペラはもっと解放すべきである。
~「レコード芸術」(1981年11月号)P77

オペラの中のアリアは一般大衆に浸透する、もはや鼻歌混じりの艶歌のようなものだと。また、今や伝説となった1981年のスカラ座来日公演のことにも触れ、オペラの、否、音楽の自由を説かれているところがまた興味深い。

・ヴェルディ:歌劇「アイーダ」名場面集
―第1幕第1場シェーナ「勝ちて帰れ」
―第2幕第1場二重唱「戦いに敗れた国の、お前の苦しみはよく判る」
―第3幕ロマンツァ「おお、私のふるさとよ」
―第3幕二重唱「薫る森林を、爽やかな谷間を」
―第4幕第2場シェーナ「死の運命の石が私の上に閉ざされた」
ビルギット・ニルソン(ソプラノ、アイーダ)
ルイジ・オットリーニ(テノール、ラダメス)
グレース・ホフマン(メゾソプラノ、アムネリス)
ルイス・クィリコ(バリトン、アモナズロ)
ジョン・プリッチャード指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団(1963.4録音)
・ワーグナー:ヴェーゼンドンク歌曲集
ビルギット・ニルソン(ソプラノ)
コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団(1971.7.7-11録音)

さすがに「ヴェーゼンドンク歌曲集」は安定感抜群。イゾルデを思わせる堂々たる歌唱に涙。第3曲「温室にて」における、深い瞑想にあるような静けさと官能に思わず唸る。

 

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