ハンガリー弦楽四重奏団のバルトーク四重奏曲第4番&第5番(1961.6-11録音)を聴いて思ふ

hungarian_string_quartet_the_collection657明暗ひとつ。闇あっての光。
ベラ・バルトークの、とりわけ円熟期の作品には暗鬱たる感情が渦巻き、時に恐怖心を煽られるほど。緻密な計算の中に無限に広がる数式の妙。民族的感性に彩られながら、これほど頭脳的に創造された音楽は稀。だからこそ祖国の演奏家に限らず、どこの地域のどんな音楽家が演奏しても相応の、というより作曲家が想像した以上の成果が得られるのだと思う。

高橋悠治と三善晃の1997年の対談に次のような言葉を見つけた。

これは河上徹太郎さんの話なんだけれども、インドネシア諸島で、ワニがたくさん島にいるのね。そうすると、ワニの首の振り方が十六通りだかあって、その十六通りの首の振り方すべてに違う動詞がつけられているのね。これが文化じゃないか、河上さんがそう言い、僕もそう思う。それは自分たちの社会で共通な名で呼べる感情は何か、そういう意味でのエトスは、どのような習慣で根づいて来るのか、そういうことではないのだろうか。だから、何かプログラム、あるいはインプットみたいなものから出てくるものと違うように思うんだよね。
小沼純一編「高橋悠治 対談選」(ちくま学芸文庫)P171-172

人為とは異なる、自然発生的なものこそ文化であり芸術なのだと。それこそ民謡収集に行脚し、知悉したバルトークの創造物のすごさは、自然を核としつつ、そこに宇宙規模の計算を加えたことにあるのだと思った。
弦楽四重奏曲集を聴いた。
古いものだけれど、ハンガリー弦楽四重奏団の1961年の録音は出色。

バルトーク:
・弦楽四重奏曲第4番Sz.91
・弦楽四重奏曲第5番Sz.102
ハンガリー弦楽四重奏団(1961.6.21-11.30録音)
ゾルタン・セーケイ(ヴァイオリン)
ミヒャエル・カットナー(ヴァイオリン)
デネーシュ・コロムサイ(ヴィオラ)
ガブリエル・マジャル(チェロ)

何というイマジネーション!これこそ凝縮された枠の中に垣間見る宇宙的拡がり。闇の中に浮かび上がる一条の光。バルトークの弦楽四重奏曲はベートーヴェンのそれやショスタコーヴィチのそれに優るとも劣らぬ必聴の名作揃いだが、中でも1928年に作曲された最高傑作第4番におけるハンガリー弦楽四重奏団の奏者を感じさせない自然な呼吸とアンサンブルに感嘆。

父はどんな無駄も許せなかった。起きている間のすべての時間を生産的なことに費やさずにいられないのが父の生き方だった。父の仕事はさまざまあり、ある仕事から別の仕事に移ることで、気分転換やリラックスすることができた。他に楽しいことはなかったのかもしれない。
ペーテル・バルトーク著/村上泰裕訳「父・バルトーク―息子による大作曲家の思い出」(スタイルノート)P244

いかにも仕事人間バルトークらしいエピソード。作品の緻密さは元来の性格から来たものだったのであろう。
また、1935年8月から9月のわずか1ヶ月間に書き上げられた第5番は、前作の無調の世界から調性の世界に舞い戻り、その上で前作同様シンメトリー構成を踏襲した、行き着くところまで行った超頭脳的作品で、筆舌に尽くし難い魅力を持つ。特に、第2楽章アダージョ・モルトにある祈りの静けさと官能に言葉を失う。
同じくハンガリー弦楽四重奏団の演奏は屈指。

 

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2 COMMENTS

雅之

バルトークって熱いですよね。私もバルトークの弦楽四重奏曲からいつも受け取るものは「緻密さ」と「熱さ」の両立で、「仕事とはこういうものだよ」という、つい面倒なことは先送りにして惰性に走ってしまう私への強烈なメッセージです。

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岡本 浩和

>雅之様

>つい面倒なことは先送りにして惰性に走ってしまう

同じくです。
バルトークを聴くと、襟を正される思いがします。

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