たぶんリヒテルが最も輝いていたであろうとき。
こんな「夕べに」はかつて聴いたことがなかった。
宙から湧いて出たような、余計な思念のない、無色透明な、人間業とは思えない、あまりにきれいで、ずっとその中に浸っていたい、そんなロベルト・シューマンには出逢ったことがなかった。浪漫とも違う、他を冠絶した、永遠が刻印された時間と空間の魔法。驚きだ。
かつて辻邦生はベートーヴェンやシューマンの標題音楽にある「美的衝迫」を捉えて次のように書いた。
注意すべきは、ベートーヴェンにせよシューマンにせよ、自然や子供の情景に感動を喚び起されたにもかかわらず、その原因となった情緒喚起物には直接結びついていないということだ。言いかえればその触発のもととなった絵画的情景はむしろ切り棄てられ、ただ情感のほうだけが残されているのである(ここに直接的な素朴感情がイデー化してゆくプロセスを見ることは正しいであろう)。
~辻邦生編「絵と音の対話」(音楽之友社)P207
なるほど興味深い論だが、リヒテルの「夕べに」の場合、この「情感」までもが放下された、まるで無の境地を音化したような音楽になっているところがすごい。続く「飛翔」の高揚、そして第3曲「なぜに」に関しては「情感」は感じとれるのだから、少なくとも「夕べに」については奇蹟的な名演奏だと思う。
「森の情景」は、第1曲「入口」から愉悦に富む、楽しい音楽が紡がれる。しかし、順次聴き進むにつれ、この曲集にもリヒテルの内面が披瀝され、苦悩にも似た暗澹たる情感が垣間見えるのだから興味深い。例えば、可憐な第3曲「孤独な花」の優しさの背面に感じられる哀しさよ(旅人の喜びを表現する)第6曲「宿」にさえ同様の哀感が染みるのだから堪らない。