ルービンシュタイン オーマンディ指揮フィラデルフィア管 ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番(1974.11.24録音)

1658年、マルティニが「中国史」をラテン語で出版した。マルティニによれば、中国の最初の王朝は、ノアの洪水後、人類が世界に分散したときよりも600年前に存在していた。そうなると、聖書の記述と矛盾する。

この件についてパスカルは「パンセ」の中で次のように論じている。

中国史。—証人がそのために死をも辞さないような歴史のみを、私は信じる。
(二つのうちどちらがいっそう信じられうるか、モーセか中国か?)
問題はそれを大ざっぱに見ることではない。わたしがきみたちに言いたいのは、そこに盲目するものと、開眼するものとがあるということだ。
この一語によって、わたしはきみたちのあらゆる推論を打破する。「でも、中国は困惑させる」ときみたちは言う。が、わたしは答える。「中国は困惑させる。しかし、そこには光も認められる。それをさがしたまえ」

パスカル/由木康訳「パンセ」(白水社)P229-230

証人とはユダヤ人のことだが、パスカルの見地は正否どちらでもなかった。(ともすると西洋(キリスト教)絶対主義的なパスカルにあってこの言は意外だった)
言うなれば、どちらも正しかった。

人の知識が時代を超えることはない。
現代はあらゆることが明らかになる時代だといわれている。
そういう時代に生きていられることはなんて幸せなのだろう。
僕はただひたすら音楽を貪る。何においてもあるのは、そこに盲目するものと開眼するものだ。

FM放送から流れるエリック・カルメンの”All By Myself”を聴いたとき、何だかとても懐かしい思いがした。なるほどそれは、当時僕が愛聴していたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番をモチーフにしていたからだと後日知った。

その頃頻繁に耳にしていたのは最晩年のルービンシュタインがオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団をバックに録音した、かの枯淡の演奏だった(繰り返し聴いたそのアナログ・レコードは今や手元にない)。ピアノが前面に押し出されたともすると(トンマイスターによってコントロールされた)アンバランスな録音だが、それがまた当時の僕にとって良かった。決して技術的に完璧とは言えない老練の演奏が、「音楽は技術力だけではないのだ」と10代の僕の心に沁みた。

・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18
アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)
ユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団(1974.11.24録音)

渾身の第1楽章モデラート—アレグロは僕の記憶の中で永遠に色褪せないだろう。
そして、愁い溢れる第2楽章アダージョ・ソステヌートはオーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団の真骨頂。何と美しい!

過去記事(2007年10月29日)

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