
相変わらず灼熱のブラームス。
(しかし、その灼熱は度が過ぎたものでなく、あくまで中庸を保つ)
ここまで思念を注ぎ込む必要があるのかと、フルト27198ヴェングラーの場合とまた違う意味で思うくらい。英国を訪問し、フィルハーモニア管弦楽団を指揮した演奏も実に素晴らしいものだが、ここは手兵NBC交響楽団とのモノに一日の長がある。
第1楽章アレグロ・ノン・トロッポの主題から熱い。そして、その温度は終楽章アレグロ・エネルギーコ・エ・パッショネートまで見事に持続する。否、音楽が進むにつれその度を増して行くのである。
ここではブラームスはソフィーの悲嘆の慰めとして働いている。現代はかくも絶望的で、分裂症的だ。アウシュヴィッツの〈悪〉以後、人間は神の不在をいや応なく引き受けなければならない。あのような〈悪〉をなし得るのは、神を信じる人間には不可能だからだ。
にも拘らず、ブラームスの世界は、まだ神が信じられた時代、人間がいかに平穏に、幸福に生きていたかを伝えている。人間は、こうした信じ難い幸福の中で、かつて生活することができたのだ—ソフィーがブラームスから得た慰めは、おそらくこうしたものだったのだろう。
「救済するものとして」
~「辻邦生全集19」(新潮社)P54
これは、ウィリアム・スタイロンの「ソフィーの選択」にまつわる辻の言である(ソフィーが聴いていたのは交響曲第1番だが)。文明が未だここまで至らぬ古の、現代社会が、現代の人間が失ったモノが19世紀の音楽にはある。そして、そういう慰めを見事に音化したのがブラームスと同時代を共にした19世紀後半から20世紀前半に活躍した音楽家たちなのだ。
トスカニーニの灼熱には得も言われぬ慰めがある。
それは、外見はまったく違えど、ワルターやフルトヴェングラーの同曲演奏の根底にあるものにも通じる。
・ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98(1951.12.3Live)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
カーネギーホールでのライヴ録音。
渾身の終楽章パッサカリアに感無量。
実演で聴いたら火傷をしそうなくらいに火を噴く表現だが、あくまでここには癒しがあるのだ。




