リヒノフスキー侯からの年給支給が途絶えた理由は先日触れた。
では、リヒノフスキー侯からの年給支給はいつから始まったのか。
芸術家支援としての年給支給は、日本風に言えば贔屓に対する“タニマチ”のようなもので、ヨーロッパでもカストラート歌手など、お気に入りにお小遣いを与える人たちは、ローマ教皇をはじめ、どこにでも居た。リヒノフスキー侯から1800年以後600グルデンの年給を得るようになったのはそうした一風景と捉えてもよいだろう。これにはドキュメントがある。1801年6月29日のヴェーゲラー宛書簡は耳疾を初めて告白したものとして有名だが、そこに「昨年来リヒノフスキー侯が600グルデンという当てになる支出を決めた」と。この件に関する言及は他の書簡にも見られる。
~大崎滋生著「史料で読み解くベートーヴェン」(春秋社)P115
意気揚々のベートーヴェンだったが、やはり数年のつき合いの中で息苦しいこともあったのだろう。最終的に1806年10月のピアノ演奏拒否からのウィーン帰還につながるのである。
ちなみに、こういった貴族のサポートを得ての余裕の中で創作された作品たちは数多ある。
久しぶりにデニス・ラッセル・デイヴィスと滑川真希が4手連弾した「フィデリオ」(ツェムリンスキー編曲)を聴きたいとネットサーフしていて見つけたのが、4手のための3つの行進曲作品45。
・ベートーヴェン:4手のための3つの行進曲作品45(1803)(2021.2.26Live収録)
滑川真希(ピアノ)
デニス・ラッセル・デイヴィス(ピアノ)
コロナ禍中、オンラインで配信されたコンサートの模様。
先の「フィデリオ」のときもそうだが、息がぴったり合った二人の、というより4本の腕による見事な鍵盤捌きによる、ベートーヴェンの音楽の躍動に感動する。
これはまさしく「パン仕事」のようにも思えるが、耳疾の中、辛うじて演奏活動に勤しんでいたベートーヴェンが思いを寄せる誰かと連弾することを空想しつつ書き上げたものなのかどうなのか、滑川とデイヴィスの楽しそうな連弾シーンを見ながら考えた。
険しく厳しいベートーヴェンの、柔らかくも軽快な側面か。