
キルステン・フラグスタートの心のうち。
芸術家としての不朽の名声など、求めるに値するものではない。高名・栄光—それらは空虚なものであり、意味のない言葉にすぎない。そんなものを求めるよりも、自分のできることをやればよい。私のことをあれこれと騒ぎ立てることも、私が歌うのをやめた日にはすべてなくなるだろう。
そうなれば、私のことを知りたいと思う人などはまったくいなくなるだろう。私は、あなたがたが考えているであろうものとはぜんぜん違う。「あなた」とは、私の話すことを一言漏らさず書き留めているビアンコリのことである。
~ルイ・ビアンコリ/田村哲雄訳「キルステン・フラグスタート自伝 ヴァグナーの女王」(新評論)
まったく謙虚な人だ。
(諸行無常、この世が仮のものだということを彼女はよくわかっている)
しかし、ファンというものはそういうものではない。芸術家の人となりまでも知りたいと思うのが常だ。
フラグスタートの歌唱はすべてが美しく、すべてが真実味を帯び、素晴らしい。
中でも、彼女の歌うワーグナーは別格だ。
ただ、興味深いのは、彼女の言葉にもあるように、グルックなどの方がよほど難しかったということだ。

私の喉は風邪に対してきわめて強く、ほとんど風邪を引かずにすんだのだが、その理由は今言ったことで説明できるだろう。もし、自分を大事にしすぎていたら、例のうっ血によるトラブルをあのように乗り越えることなどはとてもできなかっただろう。これが起こったのが、単にアメリカでの仕事の最後というだけでなく、『アルチェステ』のような音楽に取り組んでいるときだっただけに、つらかったことは言うまでもない。
風邪を引いたような状態でグルックを唄うのは、ヴァグナーを歌うよりはるかに難しい。ヴァグナーであれば、大きな声で何とか歌いきれる。そして、オーケストラがいつも声をすっぽりと覆ってくれて、ちょっとしたまちがいはほとんど気付かれない。しかし、伴奏のないレチタティーヴォをはっきり浮かび上がらせるときや、声がむき出しになるところやミスが目立つ個所では、そのちょっとしたまちがいに気を付けなければいけない。私は『アルチェステ』を歌うときにはそのことに気を付けた。そして、いつものようにうまくいったのでほっとしている。
~同上書P404-405
歌手が通常やるケアなど一切せず、むしろ喉をいじめていたというのだから並大抵ではない。渾身のワーグナーを抜粋で聴く。
クナッパーツブッシュ、ショルティ、そしてフィエルスタート等となし遂げた空前絶後のワーグナー録音はやはり永遠不滅だと思う。そこには役柄に身を投じた歌手の、音楽そのものに貢献しようとする姿勢がうかがえる。後世の僕たちはフラグスタートの堂々たる歌唱、声そのものに感動するが、それはその事実を知っているからに過ぎない。そこにはジークリンデがいて、エルザがいて、あるいはクンドリがいて、ブリュンヒルデがいるのだ。
(「ブリュンヒルデの自己犠牲」における管弦楽パートは、フルトヴェングラーの魔性と比較すると齢には弱いが、フラグスタートの老練の歌唱が相変わらずものを言う)

私には、質素で穏やかな家庭生活と、私を愛し、そして尊敬してくれる夫がほかの何にもまして必要だった。かつては両方とも手にしていたが、いまは両方とも失ってしまった。それゆえ、残された人生が静かで平穏無事であることを祈っている。
~同上書
まえがきでの彼女の言葉そのものが何と自然体で穏やかなことだろう。