カラヤン指揮ベルリン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第10番ホ短調作品93(1969.5.29Live)

ショスタコーヴィチとカラヤン。
ベルリン・フィルを率いての有名なソヴィエト楽旅にまつわるエピソードが興味深い。

ベルリン・フィルにとってソ連旅行はニキシュ以来だったが、他の楽団が成功を収めたとしても、ベルリンは、東欧諸国内では連邦共和国の一部として認められない冷戦の街であったから、ベルリンの楽団としては遠征はかなり困難だった。カラヤンはソ連の文化大臣エカテリーナ・フルツェワをよく知っていて、そのコネを利用して、1969年の5月から6月にかけて、レニングラードとモスクワへの旅を実現させようとした。冷戦状態の東ベルリンにあるショーネフェルト空港を避けるために、まずプラハで2回の公演をおこない、ロシア訪問のあと、ロンドンとパリでそれぞれ2回ずつ演奏することにする。
けれどモスクワに到着してみると、予期せぬ事態が起こった。まず、楽団員を出迎えたフルツェワ女史が、ツインの部屋しか予約できなかったので楽団員が嫌がって帰国したいと言いだすのでは、と言う。カラヤンは「楽団員の意見を尊重する」と答え、なんとか解決した。もう一つは、ロシア語が話せる楽団員が見つけたもので、ベルリン・フィルについて、プログラムにはこう記載されていた。


「フィルハーモニー管弦楽団(西ベルリン)—指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン」
ヘルベルト・ハフナー著/市原和子訳「ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝」(春秋社)P291-292

政治的に実に難しい時代だったことがわかる。
そんな中で行われたコンサートの記録を聴くにつけ、緊張感甚だしい、カラヤン渾身のショスタコーヴィチが聴かれるのだから素晴らしい(後のDGへのスタジオ録音以上に凄い演奏だと思う)。

カラヤン指揮ベルリン・フィル ショスタコーヴィチ 交響曲第10番(1981.2録音) カラヤンのショスタコーヴィチ第10交響曲(1981)を聴いて思ふ カラヤンのショスタコーヴィチ第10交響曲(1981)を聴いて思ふ

モスクワでは、ベルリンは「東ドイツの首都」であったから、こうした政治的ジレンマが起こるのである。カラヤンが要求を出し、演奏開始前に「”フィルハーモニー管弦楽団(西ベルリン)“とは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のことです」と発表することになった。だがそれはまったくの杞憂だった。モスクワにどのオーケストラがやってきたのか、噂は野火のように広がっていたからだ。会場の大部分は党幹部に占領されてしまったので、モスクワ音楽院は、切符を求める人々で大混乱だった。最初の演奏会のベートーヴェン・プログラムでは、少なくとも立見席で聴きたいと思った若者たちが、ドアを壊してしまった。
~同上書P292

インターネットなどない時代にもかかわらず、情報の伝達は恐るべき速さだった。
それこそ世界のカラヤンであり、またベルリン・フィルゆえの人気。ソ連の人々の期待も大きかったのだろうと思う。

バッハの《ブランデンブルク協奏曲》第1番とショスタコーヴィチの交響曲第10番が演奏された2日目が、特に注目を浴びた。この時代、たびたび共産党中央委員会の攻撃にさらされていたこの作曲家にとって、スターリンの死後、初めての大作であり、今回は政治上の「雪解け」に使われることになる。会場に来ていたショスタコーヴィチは、カラヤンの解釈を称賛する。
~同上書P292-293

果してショスタコーヴィチの称賛は本物かどうか。
政治的な理由で「是」とした可能性もゼロではないように思われるのだが、いかに。

・ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調作品93(1953)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1969.5.29Live)

モスクワ音楽院大ホールでのライヴ録音。
当時のベルリン・フィルの巧さはもちろん、激しい情感が灼熱の如く表現される「怒れるショスタコーヴィチ」に言葉がない。第2楽章アレグロの壮絶さ!

また第3楽章アレグレットに刻印される作曲家の孤独(?)を、あるいは孤高をカラヤンとベルリン・フィルは実に崇高に表現するのだ(作曲家自身も感動したのではなかろうか)。
そして、総決算たる終楽章アンダンテ—アレグロの、沈潜していく静けさに、あるいはショスタコーヴィチならではの激昂に僕は心を動かされた。精密に設計された音楽のあまりの美しさ。人類の至宝だとあらためて思う。

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