
墨絵の如くのショスタコーヴィチ。
2台ピアノ版は、彼特有の色彩を抑え、簡潔に音楽を表現することで、一層見通しの良いものになっている。
それにしても二人の技術の凄さに舌を巻く。実に音楽的であり、中でも、例のDSCH音型に感じられる私的な思想が何と柔らかく、そして赤裸々に紡がれることだろう。
ショスタコーヴィチ自身がピアノを弾くせいか、彼の思念そのものが楽器に同期し、音楽そのものを一層雄弁にする。
なるほど、そのとおりだ。だが、紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると、説得力が増すようだし、自分に対してもより批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくるというものだ。そのほかに、手記を書くことで、実際に気持がかるくなるということがある。たとえば、きょうなど、ぼくはある遠い思い出のためにとりわけ気持が滅入っている。これはもう数日前からまざまざと思い起こされて、それ以来、まるでいまいましい音楽のメロディーかなんぞのように、頭にこびりついて離れようとしないのだ。ところが、これはどうしてもふり切ってしまわなければならないものである。こうした思い出が、ぼくには数百もあるが、その数百のなかから、時に応じてどれか一つがひょいと浮びだし、ぼくの気持を滅入らせるのだ。どういうわけかぼくは、それを手記に書いてしまえば、それから逃れるような気がしている。どうして試してみてはいけないだろう?
~ドストエフスキー/江川卓訳「地下室の手記」(新潮文庫)P63
実際は気のせいだろうと思う。
芸術家は誰しもアウトプットすることを生業とする。技術に裏打ちされた成果物であるなら、それは間違いなく人を感動させる。彼らは皆ナルシスト(?!)だ。
・ショスタコーヴィチ:交響曲第10番ホ短調作品93(4手のためのピアノ編曲版)(1953)
ドミトリー・ショスタコーヴィチ(ピアノ)
モイセイ・ヴァインベルク(ピアノ)(1954.2.15録音)
何と生々しいピアノであることか。
第3楽章アレグロ—ラルゴから終楽章アンダンテ—アレグロにかけての熱狂!
重みがあり、信念に溢れ、ショスタコーヴィチとヴァインベルクは協働する。この交響曲が実際には極めて個人的な、信仰告白のような、心情吐露の音楽であることが透けて見えるようだ。
抑圧された精神は、協働することで自ずと愉悦に変わる。
モイセイ・ヴァインベルクもスターリンの反ユダヤ・キャンペーンにより逮捕されるに至ったが、結局はスターリンの死により解放された。共に苦難の中にあったことが、二人の思念を緊密にしたのだろうが、ほとんど二人三脚の演奏は、僕たちに類稀な感動を与えてくれる。
何と素晴らしい音楽なのだろう。


