
フルトヴェングラーはなぜ戦前のうちに亡命しなかったのか?
1971年5月3日に東京の日本青年館で行われた、近衛秀麿の日本フルトヴェングラー協会名誉会長就任記念講演の記録には、上記の謎を解明する、ヒントとなる言葉があったという。
秘書のベルタ・ガイスマールから近衛に、ストコフスキーと連絡を取り、フルトヴェングラーをフィラデルフィアに連れて行ってもらえないかという依頼があったというのである(そのためにフルトヴェングラーは自宅にわざわざ近衛を招いたのである)。
秀麿は年が明けた2日、約束どおりポツダムにあるフルトヴェングラーの自宅を訪ねた。そこで、フルトヴェングラーは自ら「アメリカへ渡る手引きをしてほしい」と秀麿に要請するのだった。秀麿がなぜ自分に、そのような危ない依頼をするのかと問うと、フルトヴェングラーは秀麿がレオニード・クロイツァーを日本へ亡命させたことを承知しており、秀麿であれば極秘裡に事を進めてもらえるだろうと考えた上での結論だという。さらに、フルトヴェングラーはアメリカへ出国を望む理由として、音楽を政治に利用し、ユダヤ人というだけで社会から排斥するナチの横暴と、ゲッベルスとの確執を挙げた。
~菅野冬樹著「戦火のマエストロ近衞秀麿」(NHK出版)P178
これを読んだ当時、僕はとても驚いた。
フルトヴェングラーはもともとナチス・ドイツに何としても留まろうという意志はなかったことになるからだ。
近衛秀麿はフルトヴェングラーの希望通り動いた。そして、ストコフスキーの快諾を得たのである。
しかしながら・・・、
ストコフスキーは首席指揮者になったばかりのオーマンディにも承認を取る必要があったために、秀麿を同席させて話をした。秀麿はフルトヴェングラーが、これまで多くのユダヤ人を擁護してきたことを告げた上で、フィラデルフィアに迎えてほしいと話すと、オーマンディからは予想外の言葉が返された。
「ナチに加担した指揮者を、アメリカに迎えることはできない」
秀麿は講演会の場で、「ほとんどできかかった話が、オーマンディの猛反発をくらって壊れた」と述べている。
~同上書P179
フルトヴェングラーは落胆し、結果、ドイツに留まることを余儀なくされたのだが、こういう話を聞くにつけ、人間の器の小ささ、あるいは確執、因縁、そういったものの醜さをあらためて思い知らされ、悲しくなる。いずれも、音楽の創造行為においてはまったく無関係の事柄だからだ。人間の思考とは、思い込みとは、人間の人生をそれだけで変えてしまう恐ろしいものだと痛感する。
しかし、一方で、であったがゆえに戦中、戦後の欧州での、フルトヴェングラーの名録音たちが残されたという事実が残るのである。何がどう転んでも、何がどのように動いても名指揮者としてのフルトヴェングラーの価値は変わらないということだ。
近衛秀麿が実演を聴いて「天井が抜けるかと思った」と述懐するベートーヴェンの第7交響曲終楽章の(芸術的)爆音に卒倒する。
フルトヴェングラー&ウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲第7番(1950録音)を聴いて思ふ
厳かな雰囲気を醸すフルトヴェングラーの演奏は、どんな小品を振っても、魔性の大作に変貌するという証のような「皇帝円舞曲」と「オベロン」序曲。スタジオでのセッションであるがゆえの端正さが余計に聴く者の魂をくすぐるようだ。
近衞秀麿指揮読響のベートーヴェン「田園」ほか(1968.3録音)を聴いて思ふ
近衞秀麿指揮札響のベートーヴェン交響曲第1番&第7番(1963.9.6Live)を聴いて思ふ


興味深いエピソードをご披露下さり、有り難うございます。
フルトヴェングラー、トスカニーニ、ワルター、その他の同時代の指揮者は、ファシズムの勃興と第二次世界大戦の勃発により、多難極まりない時代を生き抜かざるを得ない運命を、背負わされました。
第二次世界大戦終結80周年の今年も、もうじき暮れようとしております。世界中では紛争が起こり戦火の立ちのぼる国もいまだありますが、平和の有難み噛み締め、過ごしております昨今でございます。
>タカオカタクヤ様
平和の有難み、確かに日々感じ、僕も過ごさせていただいております。
フルトヴェングラーの場合も、多難極まりない時代であったゆえ創造され得た音楽芸術であり、その時代の緊迫感、呼吸感、諸々を感じさせていただける録音の存在に感謝しつつ日々楽しませていただいております。
いつもありがとうございます。