
1929年の、ベルリンでの有名な写真(トスカニーニ歓迎レセプションでの一葉)。
初めて見たのは高校生のときだった。半世紀前の奇蹟のような一葉に僕は興奮した。
(何と素敵な、すごい時代だったのだろう!)

トスカニーニがベルリンの有名なフィルハーモニーでドイツの偉大な大家達の作品を演奏した時、聴衆—ノーベル文学賞を受賞した劇作家兼小説家のゲアハルト・ハウプトマン、世界中からの外交官、そして、プロイセン州の全閣僚を含んだ—は、「劇場を去る前に30分以上喝采し拍手して立っていた」と、フィラデルフィア管弦楽団指揮者のレオポルド・ストコフスキーは報告した。1年前、ベルリンに居合わせたすべての主要な指揮者が集まって、トスカニーニと彼のスカラ座アンサンブルに敬意を表していた。この年、彼らはトスカニーニと彼のニューヨーク・フィルハーモニックに敬意を表した。その一つのコンサート後に撮られた写真は、マエストロと彼の4人の同職者を示している。クライバー、ワルター、クレンペラー及びフルトヴェングラーだった。16年後、ワルターは、それらのコンサートに言及して、「ドビュッシーの《海》の素晴らしい演奏が今でも私の耳に響いている」と書いた。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(下)」(アルファベータブックス)P23
トスカニーニの演奏がいかに素晴らしかったか、それは至るところでレポートされているが、おそらくマイクではとらえ切れない激情が、パッションが、そこにはあったのだろうと想像する。
ちなみに、ブルーノ・ワルターの報告には次のようにあるが、トスカニーニの欧州凱旋がどれだけ素晴らしいものだったかが肌で直に感じられる。
1929年の春、すなわち私がベルリン市立歌劇場に勤めた最後の月に、トスカニーニがミラノのスカラ座のアンサンブルを率いてベルリンにやって来た。彼の名上演をとおして、『ルチーア』、『トロヴァトーレ』、『リゴレット』のような前代のイタリア・オペラについてのかなり高い概念と、イタリアのオペラ文化一般についてのこのうえなく高い理解とがもたらされたのである。上演された曲目には、上記の作品のほかに『マノン・レスコー』、『アイーダ』、『フォールスターフ』も含まれていた。私が聴くことのできた上演のどの細部からも、ひとりの重要な音楽家の、天命とも言うべき倫理的責任感と生涯の仕事とが語りかけてきた。私はこれらの仕事の緊密性と確実な様式とを、心から歓迎すべき清涼剤として味わった。市立歌劇場の舞台で—彼の上演は一部は私たちのところで、一部は国立歌劇場でおこなわれた—トスカニーニに会ったとき、私が感激と感動を表明すると、彼は《称讃ぎらい》にもかかわらずそれを喜んだようであった。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P382-383
有能な、天才指揮者が大勢いた20世紀初頭の奇蹟だが、クレンペラーは次のように語っている。
ヘイワース しかし、ほんとうにがっかりしますね。先生のご意見では、ブーレーズの世代には彼に並ぶものはないとのお話しでしたが、1929年にトスカニーニがベルリンへ来たときに撮影されたあの写真を見ますと、そこにはワルター、フルトヴェングラー、クライバー、それに先生ご自身が写っています。ちがった評価もあるでしょうが、それでも当時は偉大な世代の指揮者たちがいました。それ以来全般的な指揮の水準が下がっているとお考えでしょうか。
クレンペラー たいへん下がっています。人はいつでもこう言います。「誰々の指揮した第7交響曲を聴きましたが、すばらしかったです。」わたしは答えます。「そんなことをわたしに言ってはいけません。わたしは同じ交響曲をマーラーが指揮するのを聴いたことがあるのですから、わたしにはわかっています。」完璧さを欠いている。
~ピーター・ヘイワース編/佐藤章訳「クレンペラーとの対話」(白水社)P218
時代が軽薄短小になっているのは、当時から少しずつなのだと思う。
人が心を忘れ、本末転倒する時代にあって、僕たちは大切なことを忘れてしまっているようだ。
クレンペラーが、最晩年に録音したシューマンの交響曲。
想像したほどテンポは遅くない。
しかしながら、いつも通りの重心の低い、堂々たる風趣を保つ造形であることに違いはない。
なるほど、先のインタビューの中でクレンペラーは若い世代の問題についてこんなことを語っていた。
この若い世代の困った問題は、彼らが段階をふむのを忘れていることです。『ヴォツェック』からはじめて、ハイドンの交響曲で終わることは出来ない。ハイドンからはじめて、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトに進み、そこではじめてより新しい、より複雑な音楽に移ることができるのです。そう思いませんか。困ったことに、若い指揮者たちは円熟ということがわかっていない。彼らはすぐに頂上をきわめたがる。それは彼らの成長のために非常によくないことです。
~同上書P220
まさに「本と末」という道理を踏みはずしていることがつまらない演奏の横行する原因だとクレンペラーは嘆く。
日本においても四半世紀前の朝比奈御大を最後に今やクレンペラーのような演奏はなかなか聴くことはできない。(しばらくコンサート通いから遠ざかっているので、最近の事情に疎い僕の見解の方が間違っているかもしれないが)
クレンペラーの「ファウスト」情景序曲がまた逸品!
(マンフレッド序曲と相似形)
こういうデモーニッシュな重々しい表現は最晩年のクレンペラーならでは。
最高だ。
