リヒテル J.S.バッハ フランス組曲第2番ハ短調BWV813(1991.3Live)ほか

バッハのポリフォニックは知性の証。
耳にするたびに、何世紀にもわたって世界に貢献する名曲たちに僕は拝跪する。

リヒテル バッハ フランス組曲第2番、第4番&第6番(1991.3Live)ほかを聴いて思ふ

まるで宙から紡ぎ出すかのような自然体で音楽を奏でる、否、創造するのがスヴャトスラフ・リヒテルの業。平均律クラヴィーア曲集の名録音然り、僕にとってリヒテルのそれは、時に恣意性を前面に押し出すグレン・グールドのもの以上に宝物だ。

晩年のバッハ録音はいずれもが透明な名演奏揃いだが、例えばフランス組曲においては奇数番が残されていないことが残念至極。

ポリフォニー小説の作者に要求されるのは、自分および自分の意識を捨てることではなく、むしろ自分の意識を極度に拡大・深化し、意識の(無論一定の方向への)構造改革を行なって、そこに完全な権利を持った複数の他者の意識を包括できるようにすることなのである。それはきわめて困難な未曽有の作業であろう(そのことはチェルヌィシェフスキーも自らの《客観小説》を構想したときよく分かっていたことであった)。だが生のポリフォニー的な本性を芸術的に再現しようとするには、これは欠かせない作業なのである。
ドストエフスキーの小説をモノローグ的に捉えるのではなく、新しい作者の立場の地点にまでのぼって味わうことのできる本物の読者はみな、この独特な自己の意識の積極的拡大の感覚を味わう。しかもそれは単に新しい対象(諸々の人間のタイプ、性格、自然や社会の諸現象)を自己に獲得するという意味ばかりではなく、何よりもまず完全な権利を持った他者たちの意識とのかつて経験したことのないような対話的交流を、そして完結することのない人間の深奥部への積極的な対話的浸透を経験するという意味においてなのである。

ミハイル・バフチン/望月哲男・鈴木淳一訳「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)P141

バッハのポリフォニーの中には、ドストエフスキーの構造の場合と相似形のものがあり、そこには、それ以前の、そしてそれ以降のすべての意識が確かに包括されているように僕には思われる。そして、そのことをはっきりと認識し、音化したのが(あるいはできたのが)、リヒテルその人だったのだろうと思うのだ。

それゆえに、聴き手も「新しい音楽家の立場の地点にまでのぼる」ことが必須となる。
でないと、バッハを通じ、独特な自己の意識の積極的拡大の感覚を味わえはしない。

ヨハン・セバスティアン・バッハ:
・フランス組曲第2番ハ短調BWV813(1991.3Live)
・フランス組曲第4番変ホ長調BWV815a(1991.3Live)
・フランス組曲第6番ホ長調BWV817(1991.3Live)
・トッカータニ短調BWV913(1991.11Live)
・トッカータト長調BWV916(1991.11Live)
・幻想曲ハ短調BWV906(1991.11Live)
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)

バッハを奏でるときのリヒテルは、実に自然体。
まるで赤子のように、角は排除し、いかにも円い、とんがったところのない、美しい音楽をただただ静かに聴かせる。

それにしても明朗なフランス組曲が、何とも沈潜していく様子に心が動く。

陽の気と陰の気が交錯し、最後には一つに統べるような、見事な真空に、これぞバッハの真髄と快哉を叫びたくなった。

深夜に聴くバッハは、否、リヒテルのバッハは格別だ。

道徳性というものを、自分の信念への忠実さと定義するのでは足りない。それ以上に絶えずこういう問いを自分でかき立てなければならない。つまり「自分の信念は確かなものであろうか」という問いを。信念の判断基準は常に一つ、すなわちキリストである。だがこれはもはや哲学ではなく、信仰であり、そして信仰とは赤い花だ。
~同上書P200

ドストエフスキーの生きた時代はまだまだ教えに頼るしかなかった時代である。
それゆえ、彼はキリストに帰依するしかなかった。
(本来、それは自らの内なる佛性でなければならないだろう)
リヒテルの意識も、残念ながらそこまではおそらく至っていないはずだが、それでも彼の弾くバッハはそれでも信仰篤く美しい。

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