
僕は長い間、マウリツィオ・ポリーニというピアニストを誤解していた。
(例によって某評論家の入れ知恵による先入観がそうさせたのだが)
22歳のとき、たった一度だけだが、彼の実演に触れた。それは、オール・ベートーヴェン・プログラムだった。その時の光景は今も鮮明に覚えている。
それほどに、彼のベートーヴェンは鮮烈だったということだ。
なのに、僕はその後も頑なに否定し続けた。何と悪い耳、というより思考の癖、思考の鎧であったことか。
久しぶりにベートーヴェンの作品101を聴いた。
70年代に一世を風靡した(?)例の、屈指の名演奏の方で、新しい録音の方は今もって未聴。
無機的だと勘違いするような鉄壁のテクニックに裏打ちされた見通しの良い、決して重くならない、透明な音楽は、もはや難聴の極限にあったベートーヴェンの本性、命そのものを紡ぐ、慈しみと智慧の音楽だといえまいか。
それは、70年代後半当時の、若きポリーニの真髄を示す傑作だ。
ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101
・ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)(1977.1録音)
ウィーンは、ムジークフェラインザールでのセッション録音。
静かで柔和な音調から、躍動に溢れる音楽は、喜びの証し。
彼は、音楽が時折り楽しんだ、耳よりも目を予定してある程度耳を欺くこういったピュタゴラス風の諧謔をなおもいろいろと挙げて、窮極的に分析すれば、自分はこういう諧謔を、この芸術に本来そなわっている一種の非感覚性、いや、反感覚性、すなわち禁欲へのひそかな傾向に帰するものである、と言い切った。「実際、音楽はあらゆる芸術のうちでもっとも精神的な芸術である。このことは、音楽においては他のいかなる芸術にも見られぬほどに形式と内容とが密接にからみ合って、まさしく同一物と化していることに、すでに示されている。音楽は《耳に訴える》というのもよろしい。しかしそれは条件付きでの話である。つまり、聴覚が他の諸感覚同様、精神的なものに対する代理的な中間器官、受入器官であるという限りにおいてなのである。おそらく」とクレッチュマルは言った。「全然耳では聴かれず、目で見られさえもせず、かつ感じられもしないで、できることなら感覚と、さらには情緒の彼岸で、精神的・純粋なものにおいて、知覚され観照されたいというのが、音楽の最も深く望むところである。しかし音楽は感覚界に結びついているものであるから、どうしてもやはり、きわめて強い、しかも魅惑的な感覚化を求めずにはいられない。この点で音楽は、その気にならなくても愚者パルジファルの頸にやわらかな快楽の腕をまきつけてしまう魔女クンドリーのごときものである。音楽が最もはげしい感覚的な具体化を見出すのは、オーケストラの器楽としてである。この場合、音楽は耳を通してあらゆる感覚を刺激するように思える。そして音の世界の楽しみと、色と匂いのそれとを阿片のように溶かし合せる。ここでこそまさしく音楽は妖婆のなりをした懺悔者である。ところが、一つ、こういう楽器がある。つまり、それによって音楽が耳に聞こえるようにはなるが、半ば非感覚的な、ほとんど抽象的な、そしてそれゆえに音楽のもつ精神的な性質に独特に相応する方法で聞こえるようになる、音楽的な具体化の手段である。これはピアノであって、専門的なところが一切ないため、他の楽器のような意味では全然楽器とは言えないものである。このピアノは他の楽器同様、独奏楽器として扱われ、名人芸の手段となることもあるが、それは特別な場合であって、ごく厳密に考えれば濫用である。ピアノは、正しくは、音楽そのものの精神性の、直接にして絶対の代表者である。そしてそれゆえに、人はこれを習得しなければならない。しかしピアノの課業は、特殊な技術的鍛錬の課業であってはならない。本質的にも、また全般的にもそうあるべきではなくて、その課業は、音、音・・・」
~トーマス・マン作/関泰祐・関楠生訳「ファウスト博士(上)」(岩波文庫)P110-112
音楽教師ウェンデル・クレッチュマルの見解は、まさに楽聖ベートーヴェンの後期ソナタに最も表現されていると思われる。聴覚を失った文字通り「耳を呈する」ベートーヴェンの、窮極の境地こそ、感覚を超えた、霊性そのものを表現する、そして本性そのもので聴く、というより捉えるべき傑作ばかりであろう。
そして、その精神を体現せんと努力しつつも、指が勝手に動いてしまい、ついぞ外面的効果ばかりを狙うような、まるでリストの作品のような上っ面の芸術に誤解されてしまっているのが、ポリーニの70年代の後期ソナタ集なのだと僕は思う(あくまで私見だが)。
年齢を重ねるごとに重みを増す、マウリツィオ・ポリーニのベートーヴェン。


