ボロディン・カルテットのショスタコーヴィチを聴いて思ふ

shostakovich_11-13_quartet_borodinいつの間にか秋の空。気温も随分低くなった。夜が長くなると音楽を聴く楽しみが倍加する。戸外の喧騒とシンクロさせるべく音響装置のヴォリュームを極力絞り、新たな発見に目を見張る。

ドストエフスキーをひもとく。

おれはおかしな人間だ。
奴らは今ではおれのことを「気狂い」だと言っている。

そんなフレーズに始まる「おかしな人間の夢」(太田正一訳)という短編。1877年、晩年の作だが、内容は実に興味深い。この人も悟っていたのか・・・。

憂鬱なのは、連中が真理を知らないのに、おれはそれを知っているということなんだ。おお、われ独り真理を知るというのは、なんと苦しいことだろう!だが、あいつらにはそれはわからない。とてもじゃないが、わかるまい。
P6

それは、この世のことはどこでもすべてどうでもいいという確信が、おれの心を捉えてしまったということ。・・・(中略)・・・おれは忽然と悟った―世界が存在しようがしまいが、あるいはこの世の一切が消えてしまおうが、おれにとっては同じこと、どうでもいいことなんだ、と。そう、おれは、自分には何ひとつなかったということを、おのれの全存在をもって直感したのである。
P11

天才と「おかしな人間」とは紙一重。僕の中でショスタコーヴィチとつながった。ショスタコーヴィチのアイロニカルな曲調の、特に諧謔的な音楽はドストエフスキーの天才をなぞったものだったのか・・・。

ショスタコーヴィチというのはバッハの対極にある作曲家だと思っていたけれど(ソビエト連邦という社会主義国家の中で生きていく上で少なくとも表面上は信仰というものを捨て、あくまで体制に迎合するべく社会主義リアリズムの名の下、作品を創造するという職責だったから)、やっぱりどうにも相通じるものは見逃せない(というか、彼ほど宗教心の深い音楽家はいないのではと思うほど)。特に、1960年代の諦念に満ちた作品群はバッハの精神を抜きには語れないのではないのか。それもそのはず。1950年代初頭にバッハの平均律クラヴィーア曲集にインスパイアされ作曲した前奏曲とフーガ作品87はショスタコーヴィチの最高傑作のひとつであり、大局で観れば20世紀に生み出された音楽の中でも出色の、不朽の名作といえるのだから。この音楽は形だけを真似たのではない。その内面は極めて奥深く、祈りに満ち、思念は空(くう)に至り、音楽のあらゆるイディオムを取り込む空前の作品ともいえる。これまでショスタコーヴィチ自身の演奏はもちろんニコラーエワメルニコフのものを愛聴してきたが、おそらくエレーヌ・グリモーがいずれ演奏、録音した暁にはそれらを超えるものが生まれ得るのではないか。そんなことを想像し、そしてそういう期待を抱きつつ、後期の弦楽四重奏曲を聴いた。あまりに深く哀しい。しかし、やはりここに在るのは悲観的な心でなく、あくまで生への希望であり、楽観的諧謔である。

第11番ヘ短調作品122は1966年に作曲された。第12番変ニ長調作品133は1968年3月。さらに、第13番変ロ短調作品138は1970年のもの。すでに僕はこの世に生を得、鉄のカーテンの向こうでこういう天才が活動しているのだとはつゆ知らず、無邪気に日々を過ごしていた。そう、あの頃。

ショスタコーヴィチ:
・弦楽四重奏曲第11番ヘ短調作品122
・弦楽四重奏曲第12番変ニ長調作品133
・弦楽四重奏曲第13番変ロ短調作品138
ボロディン・カルテット(1981録音)
ミハイル・コペリマン(第1ヴァイオリン)
アンドレイ・アブラメンコフ(第2ヴァイオリン)
ドミトリー・シェバーリン(ヴィオラ)
ヴァレンティン・ベルリンスキー(チェロ)

作品122の第2楽章の、どこかで聴いたことのある主題こそショスタコーヴィチの「愛」。第6楽章エレジーにはベートーヴェンの「エロイカ」葬送行進曲が木霊する。続く終楽章で「愛」の主題が提示され、「死」を包み込む。よく考えると、7楽章形式かつすべて連続で演奏されるという点でベートーヴェンの作品131の衣鉢を継ぐ。
さらに、作品133は2楽章形式、作品138では単一楽章と、音楽と精神が一つに収斂されてゆく流れはベートーヴェン以上。ショスタコーヴィチの天才。

 


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