ストコフスキー指揮シンフォニー・オブ・ジ・エアのワーグナー管弦楽曲集(1960-61録音)を聴いて思ふ

wagner_the_sound_of_stokowski518この完璧な「人工性」がレオポルト・ストコフスキーの武器だろう。
自身が主体となるのではなくあくまで客体として外から音楽を見つめながら、作品への没入振りは並大抵でなく、聴く者に必要以上のエネルギーの消費を強いる「作り物」感。
リヒャルト・ワーグナーの楽劇から重要なシーンを切り取って、つまり、音楽の流れをある意味分断しつつエキサイティングに魅せる力量は、この人の類い稀なる創造魂の賜物。ストコフスキーの面目躍如たる管弦楽曲集。
それは、決してネガティブな意味ではなく、僕はその矛盾の中にこそこの人の天才を発見する。

楽劇「トリスタンとイゾルデ」から選ばれたのは、第1幕でなく第3幕前奏曲。この憧れに満ちながら死の影を漂わせる悲しい音楽(?)が、とても明朗に響く。それは、牧童の牧笛を模すイングリッシュ・ホルンの旋律に明らか。ワーグナー同様ストコフスキーにとっても死は愛であり、すなわち生きる喜びと同義なのだ。
また、楽劇「ラインの黄金」からフィナーレ「ワルハラ城への神々の入場」の堂々たる歩み、それでいて決してだれることのない緊張感。
あるいは、歌劇「タンホイザー」から序曲とバッカナールの、崇高な精神性とは遥か遠い人間的な(エロティックな)響きに俗物ワーグナーの色気と自己中心性を思う。何より音響効果をかなり意識した音楽作りに降参。

ワーグナー:
・楽劇「ワルキューレ」~ワルキューレの騎行(1960.12.28&1961.4.20-21録音)
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」~第3幕前奏曲(1961.4.20-21録音)
・楽劇「ラインの黄金」~ワルハラ城への神々の入場(1960.12.28&1961.4.20-21録音)
・歌劇「タンホイザー」~序曲とバッカナール(1960.12.28&1961.4.20-21録音)
マルティーナ・アーロヨ(ソプラノ)
カルロッタ・オーダッシー(ソプラノ)
ベティ・アレン(メゾソプラノ)
ドリス・オケルソン(メゾソプラノ)
レジーナ・サーファティ(メゾソプラノ)
シャーリー・ヴァーレット(メゾソプラノ)
ルイーゼ・パーカー(コントラルト)
レオポルト・ストコフスキー指揮シンフォニー・オブ・ジ・エアー
・歌劇「リエンツィ」序曲(1973.10.15-16, 19録音)
・楽劇「ワルキューレ」~魔の炎の音楽(1973.10.15-16, 19録音)
レオポルト・ストコフスキー指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

一層素晴らしいのは、最晩年の録音である「リエンツィ」序曲と「魔の炎の音楽」!!
特に「リエンツィ」は、とても91歳の老人が指揮しているとは思えない鮮烈さで、この大仰さは最期まで「自分というもの」を失わなかったストコフスキーの真骨頂だろう。普通なら枯淡の境地に赴くはずが、ほとんど真逆の肉感的な響きに包まれるのだから面白い(それでいて音楽は決して表面的に陥らず安定感と深みが感じられる)。
そして、楽劇「ワルキューレ」から「魔の炎の音楽」の内に垣間見る愛情深さ。
例えば、「ジークフリートの動機」のお行儀良さ。金管の咆哮は過ぎることなく、木管や弦の音が活かされ、実にバランス良く音楽が進行する。
計算され尽くした即興性とでも表現できようか、ストコフスキーのワーグナーは真に面白い。

芸術鑑賞に必要な、共感による心の交流は、互いに譲り合う精神にもとづかなければならない。芸術家が伝言を伝える方法を知らなければならないように、鑑賞者は伝言を受けとる正しい態度を培わねばならない。茶人の小堀遠州は、自身が大名であったが、次のような忘れがたい言葉を遺している。「偉大な絵画に接するには、偉大な君主に接するがごとくせよ。」傑作を理解するためには、その前に身を低くして、その一言一句も聞き洩らすまいと、息を殺して待っていなければならない。
岡倉天心著/桶谷秀昭訳「茶の本」(講談社学術文庫)P68-69

音楽然り。

 

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