鈴木雅明指揮BCJのバッハ「復活祭オラトリオ」を聴いて思ふ

bach_easter_oratorio_suzuki_bcj171ところが、バッハを理解するためには、キリスト教の信仰が必要か、と問われたら、ぼくの立場からは、ぜひとも必要ですと応えるしかないんですね。ぼく自身のバッハ理解を自分の口から言う以上、ぼくはキリスト教の立場でものを見ていますからね。だから、バッハはこうです、というひとつの像があるとして、その同じ像を共有したいと思ったら、キリスト教という点を共有しないではありえないんです。キリスト教のことを少しは知らなくてはバッハ理解はできないという人もいますが、そうではないんですね。“知る”かどうかではなく、問題は“信じる”かどうかだけです。前から言ってきていますように、そもそも問題は知識ではないんです。
鈴木雅明著「バッハからの贈りもの」(春秋社)P397

鈴木雅明氏は、キリスト教への理解なくしてバッハを真に理解することはできないという。厳密には、キリスト教への深い信仰こそがバッハと同期する手立てだと断言するのだが、今や普遍的となった彼の音楽は、キリスト教という枠を超え、森羅万象、大いなるものを讃える意志が内に在るなら誰にでも受容可能であると僕は思う。

バッハでも、ヴィヴァルディでも、宗教音楽を書いている以上、典礼上のしばりがあって、実際的な音楽になっていた。“実際的な音楽”というのは、自分の外に出て他人に奉仕するためのものですから、自分自身のためのものではない。典礼のための音楽というのは、ある意味で非常に自分から離れたデヴォーショナルな(献身的な)ものです。こういう音楽を書いている人は多かれ少なかれ、そういう認識があったにちがいないと思います。
~同上書P395

「実際的」という言葉の是非はともかくとして、バッハが書いた音楽が、特に宗教音楽に関しては献身的なものであったという点に彼の作品の偉大さがあるのは確かだが、ある意味仕事の枠を超えているところがバッハの唯一無二たるゆえん。

バッハは、自分自身のテクニックの誇示とか、自己表現の完結というか、個ということを最終的な目的にしないで、この世にあるユニヴァーサルなものの秩序とか意味とかいったものを追い求める方向に行った、とぼくは感じます。
~同上書P396

そう、まさにバッハの「永遠性」の裏側には「無私」「無我」がある。

J.S.バッハ:
・復活祭オラトリオ「来い、急げ、走れ、逃げまどう者たちよ」BWV249
・昇天祭オラトリオ「御国にまします神を讃えよ」BWV11
野々下由香里(ソプラノ)
パトリック・ファン・フーテム(カウンターテナー)
ヤン・コボウ(テノール)
浦野智行(バス)
鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン(2004.5録音)

「復活祭オラトリオ」第2曲アダージョのフルートの哀しき歌に、世俗音楽をも得意にしたバッハの類稀な音楽的センスを思う。第3曲合唱の明朗な響きは、血湧き肉躍る(?)バッハの真骨頂。第5曲ソプラノのアリア「御霊よ、君の香料はもうミルラではない」における、ほとんど人の声を感じさせない野々下由香里の歌の素晴らしさ!
そして、第7曲テノールのアリアはペテロによる「わが死の苦しみは安らかで、ただ、まどろみにしかず」だが、ここでのヤン・コボウの柔和で優しき歌に心癒される。
さらに、第9曲カウンターテナーのアリア「すぐに告げてよ、愛するイエスのいるところ」の、あまりに人間っぽいマグダラのマリアに感動。
しかし何といっても終曲合唱の壮麗さ、そして音楽の前進性にこそバッハの天才を垣間見る。
鈴木雅明&BCJの見事な表現に拍手喝采。

 

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