
僕たちは連綿とつながる時間の中に生きている。
すべては継続の中の一瞬であり、その一瞬をとらえて芸術が創造されている。
次のような論がある。
『城』は不条理な小説である。雪のなかを夜遅く村に到着したKは測量士で、城から測量を組まれたはずなのだが、この長編小説が所有する膨大な頁と作品空間のなかで、Kはどのような方法を用いても、いかに歩き回っても、城にたどりつけない。
ブランショの『木の橋』は、『城』に対する直接的な作品論というよりは『城』を通して文学空間を捉える論である。『木の橋』のなかでブランショは次のように述べている。
われわれは書物を読んだのちにそれに注釈を加える。注釈を加えて気がつくのは、この書物自体が、そのもとになっている他の何冊かを書物化したものにすぎないということだ。一方、われわれの注釈だが、われわれはそれを書き、それを著作の域にまで高める。かくてそれが、公刊された公的なものになると、この注釈そのものが別の注釈を呼び起こすのであり、この別の注釈がさらに別の注釈を呼び起こすのである・・・。
この言葉を煎じ詰めれば、「あらゆる作品は、それに先行するあらゆる作品への注釈である」ということになる。つまり、非常に簡略化して言えば、ベートーヴェンはその作品群を無から生み出したわけではなく、モーツァルトやハイドンら先行する膨大な作品群を聴き、そこに注釈を加えたことによって成り立っている、ということである。同じように、シューベルトはベートーヴェンやモーツァルトの、シューマンはシューベルトやベートーヴェンの作品に関する注釈としてある。意図的に対象を研究せずとも、それらの作品を聴くことによって、それはそれらの作品への一種の注釈になっているのである。
~梅津時比古「ざわめく菩提樹 シューベルト研究I」(春秋社)P116-117
僕は思わず膝を打った。
すべてが時間の流れの中にあり、しかも人々の意志という流れの中にあるということをよもや忘れてはならない。
個人的に連作歌曲集「冬の旅」はフィッシャー=ディースカウの数多の録音で良しと長らく僕は考えていた。
フィッシャー=ディースカウの「冬の旅」 そこに、イアン・ボストリッジの録音が登場したとき、僕は思わず(良い意味で)耳を疑った。裏切られたと思った。これぞ現代最高のシューベルト歌手による、最高の「冬の旅」だと思った。
ボストリッジ&アンスネスのシューベルト「冬の旅」(2004.5録音)を聴いて思ふ 「あらゆる作品は、それに先行するあらゆる作品への注釈である」という観点から、ゲルハルト・ヒュッシュの歌に注釈を付けたのがフィッシャー=ディースカウであり、もちろん他にも様々な歌手の名盤はあれど、フィッシャー=ディースカウの歌に注釈を付けたのがボストリッジだったのだと個人的に思った。
24曲すべての、ボストリッジの完璧な歌唱表現に感動する。
第1曲「おやすみ」から、詩に対する歌手の共感は美しく、また素晴らしく、その歌に共鳴し、僕たちの心は癒される。ミュラーの暗澹たる詩が、シューベルトの美しい曲を得て、何とも清廉な、未来を明るくする歌に変貌することか。
・シューベルト:連作歌曲集「冬の旅」D911(1827)
イアン・ボストリッジ(テノール)
レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)(2004.5録音)
曲の進行とともにボストリッジの歌はもちろんアンスネスの伴奏までもがより深みにはまっていく様子は見事としか言いようがない。もちろんそれはシューベルトの音楽の哲学的深遠さに発するものなのだが、全体を俯瞰し、美しく、そしてまた現実的に描き上げるボストリッジの技術には言葉がない。
《冬の旅》は本来第一部と第二部とに分かれているが、実は第二部は第一部を注釈する構造になっている。原理的には第一部は比較的事実性に基づいており、現実からの出発を見てとることができる。そして同時にそこに文学空間・音楽空間としての作品の構造の提示も見られる。第二部では事実性は抽象化され、哲学的に深まり、疎外とニヒリズムに関わる思想的な課題が立ち顕れてくる。同時にそこに事実性としての政治的問題も見られる。
~同上書P6-7
時間の中での注釈の積み重ね。
後世が頭でっかちに成り行く理由がこれによって明らかになる。
時間と逆行するように、本来の理性を取り戻す、終曲「辻音楽師」が何と空虚に響くことか。
良い意味で、ここは空っぽだ。
