レナード・バーンスタインが最晩年に「人生で最も気に入っているレコード」とした録音。
本来4人の弦楽器奏者のために作られた最晩年の哲学的、革新的作品は、60人の弦楽器奏者によってより巨大に奏され、世界を震撼させた。ジョナサン・コットとの、亡くなる1年前のインタビューの最後に二人で聴いたのは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131(弦楽合奏版)だった。
〈バーンスタインはCDをプレーヤーに載せ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131の弦楽合奏版を聴こう、と私に告げた。それは、彼が1977年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の60人の弦楽器奏者たちと録音したものだった。〉
それはとても美しく、驚くべきものだったので、妻に捧げたよ。僕が誰かに捧げた唯一のレコードさ。ウィーン・フィルハーモニーの弦楽器奏者たちをそのように演奏させるのには格闘しなければならなかった。実際、僕は、それは不可能な企てだと、個人的な手紙さえもらったんだ。「4人でも不可能な曲なのに、60人でどうやってできるのですか?」。彼らならできるさ。
僕はコントラバスを重ねた。コントラバスは7人で弾いたが、君はこんなにゴージャスなコントラバスの演奏を聴いたことがないだろう。思慮深くチェロも重ねたが、あとは一つの音符も強弱記号も変えていない。最後には彼らはそれをとても気に入ってくれた。この流転する対位法を伴なう感動的で心に突き刺さる作品がわからないなら、どのマーラーの曲もわからないよ。アテネのパルテノン神殿の野外ステージでオーケストラと僕とで演奏したが、聴衆はただうっとりしていたよ。君にかけてあげよう。
でもあなたは疲れているに違いありません。
気にしなくていいよ。これをちょっと聴かないとダメだよ。途中から始めるけど、僕の大好きなスケルツォさ。聴きたまえ!
〈すぐに、雷鳴のような、スケルツォの最初の衝撃的な和音。爆発的に大きな音量で演奏され、文字通り、私はスピーカーから押し離され、でも演奏は続き、私はこの大海のような音楽の容赦のない潮の満ち引きに引き戻されたが、バーンスタインは、四重奏の内声を歌い上げ、ときに私のために構造の詳細を説明しようとコメントを叫んでいた。〉
ベートーヴェンがまったく耳が聞こえずどうやってこの傑作を作曲したのか、推測することが私にはできませんでしたが、たぶん彼は作曲中にどうにか最も深い自分自身を聴くことができたのですね。そしてあなたたちの演奏が、まるでベートーヴェンの頭の内側がわかったような気持ちに私をさせてくれました。
そう、彼の頭の中。誰かが彼の頭の中に入り込まなければならない。そこに僕らはいなければならない。オープニングのフーガを聴かないといけないよ。ジョナサン、ワインをもう一杯飲もう。僕らはフーガを聴くよ。そして終わりにしよう。
でもこれは既にあなたの頭にある。それどころかあなたはそらんじている。
そらんじているが、僕は君とこれを聴きたいんだ。作品をうしろの楽章から聴いてごめん。これが信じられないくらい素晴らしいので、君は聴いているものを信じることができない。ベートーヴェンが不可能なことを書いたのがここだ。これは4人の奏者がお互い闘っているのではない。大地という作品と格闘しているのだ。ここはたった一つの終わりのない弓遣い、情事だ。この作品を演奏している時、ステージは愛であふれ、誰もがほかの誰かを愛していた。誰もが効いていた「そう、僕らは君を聴いている。君を聴いているよ!」
〈バーンスタインと私は何もしゃべらず、フーガを聴いた。フーガが消えていくと(仏陀の言葉で「放たれた星、蜃気楼、炎、マジックのトリック、露のしずく、水のあぶく、夢、のように」)バーンスタインは私に振り返った。〉
語り合った友よ、終わりだ。またいつか!
~ジョナサン・コット著/山田治生訳「レナード・バーンスタイン ザ・ラスト・ロング・インタビュー」(アルファベータ)P174-178
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131(1826)(弦楽合奏版)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1977.9.8-10Live)
ウィーンはコンツェルトハウスでのライヴ収録。
あらためて観、あらためて聴いて、真に素晴らしい編曲であり、深遠な音楽であり、美しい演奏だと思った。バーンスタインがコットに聴かせたように僕も第5楽章プレストから聴いてみた(残念ながら僕のシステム環境ではコットが体験したような衝撃的な和音は体感できなかったが、相応の部屋で音量を限りなく大きくして聴けば驚くような見性体験ができるのかもしれない。
(コットが想像するように、ベートーヴェンはこの楽章作曲中に文字通り見性体験を重ねたのだろうと思う)
そして、第1楽章のフーガ!!
指揮台からバーンスタインは慈悲を、大愛を見、感じていたのである。
喜びの表情、恍惚の指揮姿、まさに天人合一によって成し遂げられた大演奏がここにあるのだと思った。
そして、「またいつか!」はなかった。