
ミサ・ソレムニスと並行して書かれたディアベリ変奏曲は、ベートーヴェンの最高傑作の一端を担う。録音で聴いても、実演で聴いても、その真髄をつかむのに相応の時間と経験を要するが、ミサ曲同様、一たび腑に落ちれば、生涯の宝となる逸品だ。
ベートーヴェンの頭の中。
カールの件ですが、ランツフートの著名かつ権威のあるザイラー教授の許に連れていけておりません。ボンのことを此処の人々が何といっているかお分かりでしょうか。このボンナ(善)が直ぐにマーラ(悪)になってしまうのです。—この点においては、自国民を出国させない中国や日本人のほうが文化的にはわれわれよりすぐれています。
(1820年2月、ジムロック宛)
~藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P216
ベートーヴェンの書簡の中で「日本」という文字が出るのは、このときが唯一らしいが、これはどうやらカントの「永遠平和のために」(1795)からの引用のようだ。
これと比較するために、開花された民族、とくにヨーロッパ大陸で商業を営む諸国の歓待に欠けた態度を考えていただきたい。これらの諸国がほかの大陸やほかの諸国を訪問する際に、きわめて不正な態度を示すことは忌まわしいほどであり、彼らにとって訪問とは征服を意味するのである。これらの諸国がアメリカ、黒人の諸国、香料諸島、希望岬を発見したとき、これらの土地はだれのものでもないとされ、そこに住む住民はまったく無視されたのだった。東インド(ヒンドゥスタン)においては、商業のための支店を設置するという口実で外国から軍隊を導入し、この軍隊の力で住民を圧迫し、現地のさまざまな国家を扇動して戦争を広めさせ、飢餓や叛乱や裏切など、人類を苦しめるあらゆる種類の悪の嘆きをもたらしたのだった。
中国と日本は、外国からの客を一度はうけいれてみた。しかし後に中国は来航を認めても入国は認めなくなった。日本は来航すら、ヨーロッパのオランダに認めるだけで、来航したオランダ人をまるで捕虜のように扱って、自国の民の共同体から切り離したのだが、これは賢明なことだったのである。何とも憂うべきことには(ただし道徳の裁判官の観点からみると何とも善いことには)、ヨーロッパ諸国はこうした暴力的な行動によっても、満足できる成果をあげていないのである。
~カント/中山元訳「永遠平和のために/啓蒙とは何か」(光文社古典新訳文庫)P186-187
18世紀末当時、カントといえど欧州第一主義だったことがうかがえる。
当時の中国や日本の方法が「暴力的行動」というのなら、それは表層しか認識しておらず(大いなる誤解)、その心を読み解けていなかった証だからだ。江戸300年の太平は、外国人を封じたことによるものではなく、強力な統治システムがそこにあったことを忘れてはならない。
そして、そもそも当時の日本人の中にあった道徳心、倫理観こそがその統治を可能にした根源だと僕は思う。
(その点、おそらくベートーヴェンは理解していたことと思われる)
ウゴルスキのベートーヴェン「ディアベリ変奏曲」(1991.5録音)を聴いて思ふ ベートーヴェンの創作の、ピアノ音楽の集大成であり、畢生の大作「ディアベリ変奏曲」。
未だに僕は、アナトール・ウゴルスキが残した、あの異様な、深遠な表現に膝を打つ。そして、そのしみじみとした、長い音楽の中に没入していく我を思うのである。
・ベートーヴェン:アントン・ディアベリのワルツによる33の変奏曲ハ長調作品120
アナトール・ウゴルスキ(ピアノ)(1991.5録音)
大宇宙の根源とつながり、森羅万象すべてを表現せんとするベートーヴェンの天才。
哲学的な音楽のうちに溢れるのは「皆大歓喜」の精神であり、慈しみと智慧だ。
ディアベリの主題提示から異次元。
内から湧き上がる愉悦があり、単純明朗な主題からベートーヴェンはいとも容易く(?)変奏を幾種も繰り出すのだ。
第31変奏以降はもはや神の境地か(?)と思うほど深い。
1995年2月の来日時の映像が残されているが、さすがにライブならではの瑕はあっても、表現の大枠は変わらず、ウゴルスキのディアベリ変奏曲が堪能できる。
(実演に触れたかった)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン255回目の誕生日に。
