
今年の冬至は中でも特別な節目の日だと聞いた。
世間ではどこもかしこも「第九」、「第九」。
おそらくベートーヴェンが苦し紛れに成したであろう終楽章合唱は、それこそ「皆大歓喜」を歌うけれど、個人的にはやっぱり不自然だと思う。
(そもそもなぜ前3楽章を否定せねばならないのか)
フリッチャイ指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲第9番を聴いて思ふ
レパートリーを極度に絞り込んだカルロス・クライバーは、ついに「第九」は指揮しなかったし、当然録音もしなかった。父エーリヒの「第九」が素晴らしいだけに、聴いてみたかったところだが。
カルロスは結局のところ、彼の模範である父から思ったほどたくさんのことは学べなかった。しかしそうは言ってもそれはかなりの経験になった。彼は父の芸術的な姿勢に感銘を受けたので、父に負けまいと努力し、父と肩を並べようとした。そして指揮者となるに充分な解釈術を学び取った。しかし彼はそれにとどまらず、父の優れた同業者たちからも学ぶものがあったし、それらを採り入れることで、エーリヒの純コピーとは言えなくなった。彼は自分自身の強烈な個性から独自のプロフィールを作り上げた。にもかかわらず多くの点で彼と父との間に共通点が見られる。二人は強迫観念的なほどの完璧主義者である。また二人ともこと芸術となると妥協を嫌い、いい加減さに我慢ができなかった。
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上」(音楽之友社)P56
果して二人の個性は同根だった(親子なのだから当然だ)。
だからこそ、カルロスがどんなに抗おうとしても、同じような音楽の創造、再生に至ったのだと思う。
エーリヒの「第九」を繰り返し聴くにつけ、カルロスならどう表現しただろうと想像するのは滅法面白い。
父の指揮スタイルに魅せられた彼はのちにこう語っている、「父によれば指揮はハードな仕事で、職人的な器用さを必要とするが、もう一方でインスピレーションもなくてはならないということを強調していました。インスピレーションとはどんなものかを具体的に説明していませんが、わたしはそれを実地で知っています。ミュンヘンでの父の《エレクトラ》のプローベが好例で、父は演奏の中ほどに差しかかった時、その作品に心を動かされているのが見た目にもわかり、父の腕がだんだんだんだん伸びてゆくように見えたことがあります。それはとても筆舌に尽くし難い、神秘的で、不思議な、独特の身振りでした」。
~同上書P62
エーリヒの「エレクトラ」は確かに特別なものだったのだろう。しかし、カルロスにとってみれば、父エーリヒの指揮のすべてがそうだったのかもしれないと僕は思う。
音楽のもつ推進力、そして、外へ外へと拡散せんとするエネルギーに、絶頂期のエーリヒ・クライバーの指揮は絶対的なものだったのだろうと想像した。
中庸のテンポで、これほどキレの良い「第九」は他に類を見ない。
動静相まって「キレ」を生む。
止まっているところから立ち上がる瞬間にこそ「キレ」が生まれるのだと。
ならば、音楽においてはパウゼこそ命だ。
(ブルーノ・ワルター指揮するモーツァルトの交響曲第40番ト短調K.550第1楽章アレグロのルフトパウゼがその典型だ)
第2楽章モルト・ヴィヴァーチェ—プレストの情熱(トスカニーニの灼熱に対して減じるが、エーリヒの表現には間違いなくキレがある)。
流麗な第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレは、カルロスもそうしただろう(否、カルロスならもっと速いテンポ設定だったかもしれない)と思わせる美しいもの(粘りの少ない清澄さ)。
そして、エーリヒ指揮する終楽章「歓喜の歌」にこそ動静相まっての「キレ」があったことに今さら僕は驚いた(計算された「ため」と、そこから立ち上がるときの爆発力!)
ウィーン・フィルの健闘が大きい。
