
ブルックナーの交響曲第6番。
最後に実演を聴いたのはかれこれ16年前、インバル指揮都響の定期演奏会だった。
正直そのときの記憶は一片もない。古い記録を辿ってみると、途惑う僕がいたようだ。しかしながら、是非を云々する立場にない僕が、そのときの印象を振り返ったところで大した参考にはならない。終演後の怒涛の拍手喝采ということなら、確かに名演奏だったのだろう。
演奏を評することなど10年どころか100年早いと今なら言い切れる。
インバル&都響のブルックナー第6交響曲
久しぶりに聴いた交響曲第6番に僕はすっかり感動した。
ブルックナーの中では比較的軽量級(だと誤解していた?)とはいえ1時間超の大交響曲を繰り返し幾度も聴きたくなるのだから面白い。
もちろん(《トリスタン》抜粋以外は)オーケストラ演奏のみ。そしてブルックナーの名が繰り返される。彼のブルックナーとその時間を忘れさせる長い演奏はチェリビダッケを絶対的な地位へと高めていく。ミュンヘンはブルックナー教徒のメッカとなり、ブルックナーはミュンヘン・フィルのモーゼとなる。
ヘラクレス・ザールへと人々は殺到する。チェリビダッケの指揮が危ぶまれることがたびたびあってもひるまない。同一プログラム4回で合計6千枚のチケットはごく普通。定期会員券申し込みにはすでにウェイティング・リストがある。ブルックナーの時はチケットを求める人々が座り込む—バイロイトのグリューネン・ヒューゲル並み。
~クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P246
僕は、90年代の朝比奈人気を思い浮かべる。
(しかしながら、朝比奈は当時もはや交響曲第6番をコンサートで振ることはなかった)
チェリビダッケの演奏は、特にブルックナーは実演に触れない限りその真価はつかめないと僕はずっと思っていた。
評判が広まるにつれ世界は、チェリビダッケのブルックナーを求める。
周囲はとにかく録音を残させようと躍起になる。
ところがある日、ハンブルクのブレースト氏が逃げ口上を用意してくれる。「いいえ、マエストロ。いつものレコードではないのです。ステレオ製作でもありません。知らない人間がミキシングパネルで勝手に音響を操作することもありません。今度のは音と画像への記録、コンサートを生で、つまり実況の録音です。録音用に演奏するのでもなければ、不自然な工作されたものでもありません。最初はブルックナーだけ。第3番から第9番まで。2~3年間に少しずつ。ごく普通のコンサート会場で」。
そのために支払われる金額も大したもの—交響曲1曲につきチェリビダッケには報酬として10万マルク、そして楽団にも同額(ただしこのうち実況録音の場合は7~10パーセントが楽団所属機関としてのミュンヘン市に支払われる)。ちょっと我慢するだけでこれだけの金額が入る—ソニーにやらせておけばよいだけ。
~同上書P273
チェリビダッケは結局折れる。
息子のセルジ曰く「父は音楽ではなく音響画像劇のようなものだと考え、最後は妥協したのです」。
1990年10月ブルックナーの交響曲第7番、第8番がサントリーホールで実況録画される。その1年後にはミュンヘン・ガスタイクでの第6番が続く。第7番ホ長調に関しては、1992年3月にベルリン・フィルとの共演で第2のヴァージョンが生まれる。ドイツ連邦共和国首都の指揮台にチェリビダッケが戻って来たのを記念して。指揮者がこの第7番の2つ目の録音を公開させる可能性は、彼がオーケストラの成果自体に痛烈な批判をしていることからみて、まずないと思われる。
~同上書P275
後年の僕たちは知っている。2つ目の、ベルリン・フィルとの第7番は公開され、素晴らしい名演奏としてブルックナー・ファンに迎えられていることを。
カラヤンとはまた違った意味で外面が練磨されたチェリビダッケの演奏は、そのツボを捉えた瞬間に、すっと心に迫るものに変化する。特に、ブルックナーの交響曲の中では目立たない第6番など、音楽の真髄を見極める上で、実に貴重な、見通しの良い演奏であり、この曲の魅力を十分に伝えてくれる。
・ブルックナー:交響曲第6番イ長調(ハース版)
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1991.11.29Live)
どの楽章もブルックナーの自然体、信仰を描写する美しさ。
(まったく煩くならず、音楽の隅から隅までが何と有機的に響くことか)
個人的には22分超に及ぶ第2楽章アダージョの深遠な世界に言葉を失う。
第3楽章スケルツォは、トリオでの第5番の主題の回想シーンに懐かしさが込み上げる。それはチェリビダッケならではのゆるやかなテンポ設定であるがゆえのおのであり、これぞブルックナー音楽の真価だろうと思う。
そして、コーダの第1楽章第1主題の回想に向けて進行する終楽章は、最後の音が鳴り終わった後の聴衆のしばらくの静寂という反応を見る限りにおいて、演奏がどれほど素晴らしいものだったか想像に難くない。(聴衆は言葉を失っているようだ)

