アレグロ・コン・ブリオhttps://classic.opus-3.net/blog音楽を聴きながら日々感じたこと、思ったことを綴る、岡本浩和の「音楽日記」Thu, 25 Apr 2024 10:57:46 +0000jahourly1https://i0.wp.com/classic.opus-3.net/blog/wp-content/uploads/2015/05/Allegroconbrio-5555595av1_site_icon.png?fit=32%2C32&ssl=1アレグロ・コン・ブリオhttps://classic.opus-3.net/blog3232 35393011バックハウス ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110ほか(1966.11録音)https://classic.opus-3.net/blog/?p=36027https://classic.opus-3.net/blog/?p=36027#respondThu, 25 Apr 2024 10:57:46 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=36027

ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ群の革新、そして余分なものを削ぎ落した、人間業とは思えない高貴さに僕はいつも拝跪する。さすがのバックハウスの演奏も淡々とした、枯れた味わいを示し、文字通り「我なし」の状態で作品に対峙す ... ]]>

ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ群の革新、そして余分なものを削ぎ落した、人間業とは思えない高貴さに僕はいつも拝跪する。さすがのバックハウスの演奏も淡々とした、枯れた味わいを示し、文字通り「我なし」の状態で作品に対峙するようで、聴いていて何とも温かい、また崇高な心持ちをいつも喚起される。

しかしだからといって、バックハウスには、深い情緒の表現がないということにはならないのである。たとえば、作品110にの終楽章の〈嘆きの歌〉となると、その悲しみは何の誇張も感傷もないだけに、一層、きくものの胸に切々として喰いこんでくる。また同じハ短調でも、作品111の第32番ソナタ、つまりベートーヴェンのピアノ・ソナタの最期の結論である作品の導入部についても、同じことがいえる。これはルバートを混じえず、がっちりしたリズムで、一音一音正確にひかれればひかれるほど精神的な品位と威厳とでもいったもの、堂々と姿を現わしてくるのであって誇張はむしろ絶対に禁物なのである。
こうした例は、バックハウスのベートーヴェン演奏についての原則を示すものといえよう。バックハウスのベートーヴェン演奏のスタイルは、要するに、〈作品が優れていればいるほど、演奏もますますりっぱに真価を発揮する〉ような具合になっているのである。

(吉田秀和)

聴く側も、年齢を重ねれば重ねるほどベートーヴェンの「皆大歓喜」の祈りを肌で感じることが可能になるだろう。(これがパンのために創作された作品だとは!)

ベートーヴェンのピアノ・ソナタは、根本においてはモーツァルトまでの古典派のソナタ形式を継承した。しかし、彼はこの形式の持つ表現可能性を徹底的に追究し、その絶対音楽的な力動性と精神性とを最高度に表現したのである。
(渡辺護)

ベートーヴェンのソナタの意義はその点にあると渡辺さんは指摘する。納得だ。
あらためてバックハウスを聴く。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第25番ト長調作品79(1809)
・ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110(1821)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)(1966.11録音)

ジュネーヴはヴィクトリア・ホールでの録音。
見落とされがちな「やさしいソナタ」であるト長調作品79も、バックハウスが弾くと、ごつごつとした無骨な表現の中に、慈愛に溢れる明朗な音調が湧き上がるのだから堪らない。

第1楽章の主題は、すでにベートーヴェン作曲の騎士バレエの中の〈ドイツ歌曲〉—1791年作曲 に使われている。さらにさかのぼれば、この主題の起源はモーツァルトのヴァイオリン奏鳴曲ト長調K.379の第3楽章にある。
(渡辺護)

著作権のなかった時代ゆえの鷹揚さ。というより、それゆえの天才と天才の掛け算、つまりシナジーがあちこちに跋扈し、それこそがかの時代の傑作を生み出す源泉だったと言えまいか。

あるいは、1821年12月25日に完成された作品110の筆舌に尽くし難い完全なる叡智の結集!

第1楽章はソナタ形式によっているとはいうものの歌謡的な主題といい、自由な態度で作曲されているし、同じ自由さは第2楽章にもうかがわれる。第2楽章に到っては、まったく独特のものでレチタティーヴォとフーガという後期の特徴的形式を愛用している。これは当時作曲中の〈ミサ・ソレムニス〉に影響されたものであろう。
この曲は作品109と並行して着想されたが、作曲はおくれて行き、精神的にも肉体的にも苦悩の時期に入って行った。その感情は第2楽章や、第3楽章に反映され、曲全体が作品109とはかなり違った性格をもつものになった。

(渡辺護)

渡辺さんの解説は今となっては少々古びた印象がある。
確かに同時に創作されていた「ミサ・ソレムニス」の影響もあろうが、それ以上にベートーヴェン自身の精神状態が祈りや信仰を希求する状態にあったことが想像される。それに、これらのソナタ群はあくまで「パンのため」に生み出されたのだから、実に現実的なものであることを忘れてはならない。
何を目的にしようと、1820年代にベートーヴェンが創造したものは、まさに「天人合一」の賜物だ。

聾耳のため外界から遮断され、内なる心の世界に入りこむことによって、ピアノは瞑想と実験の道具となった。ピアニスティックな要素は依然として重要であるが、時にそれは可能の限界に突当り、異常な音響の世界に沈潜する。フーガが多く用いられるようになったことは、楽匠が現実の音楽から引離されたことと無関係ではあるまい。
(渡辺護)

渡辺さんの指摘の正否はわからない。
しかし、確かに心の耳で音楽を創造せざるを得なかったベートーヴェンの、諦念というよりむしろ、余分な思念が放下された状況下での作曲が作品の質をそこまで磨き上げたのだろうと想像する。それは、生涯にわたってピアノ・ソナタを書き続けたベートーヴェンの、「量質転化」の結果なのだろうと思う。

※太字は「ベートーヴェン:ピアノ奏鳴曲全集」SL 1157-66ライナーノーツより抜粋

過去記事(2015年8月8日)
過去記事(2013年5月11日)

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クリュイタンス指揮フランス国立放送管 ラヴェル 組曲「マ・メール・ロワ」(1954.6.26録音)ほかhttps://classic.opus-3.net/blog/?p=36022https://classic.opus-3.net/blog/?p=36022#respondWed, 24 Apr 2024 09:37:58 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=36022

春の魅力、それをコンブレーまで味わいに行くことができないので、スワンは、せめて「白鳥の島」かサン=クルーへ行けばそれが見出せるだろうと自分に言いきかせた。しかしオデットのことしか考えられない彼は、はたして自分が木の葉の香 ... ]]>

春の魅力、それをコンブレーまで味わいに行くことができないので、スワンは、せめて「白鳥の島」かサン=クルーへ行けばそれが見出せるだろうと自分に言いきかせた。しかしオデットのことしか考えられない彼は、はたして自分が木の葉の香りをかいだのか、月の光はさしていたのか、それすら分からなかった。彼は庭園のなかで、レストランのピアノで弾く小楽節によって迎えられる。庭にピアノがないときは、ヴェルデュラン夫妻はたいへんな苦労をして、部屋のなかか食堂にあったピアノを庭におろさせるのだった。それはスワンが、ヴェルデュラン夫妻の寵愛を回復したからではない。その逆だった。ただ、たとえ嫌いな人であっても、だれかを楽しませることをあれこれ工夫すると思うと、その準備に必要な時間だけは、ヴェルデュラン夫妻のうちに、一時的に相手に対するはかない共感と思いやりの感情が広がるのだった。
マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて2 第一篇 スワン家の方へII」(集英社文庫)P190

なるほどモーリス・ラヴェルの音楽に魅了されるのは、彼の音楽の内にある春の魅力、すなわち「はかない共感と思いやりの感情」を感じるからだと、プルーストを読んで思った。特に、アンドレ・クリュイタンスの棒によるラヴェルにはその印象を強くする。中でも、1950年代初頭、クリュイタンスが録音した旧いレコードに僕は惹かれる。

ラヴェル:
・亡き王女のためのパヴァーヌM.19(1899/1910)(1954.5.14録音)
ルイ・コーティナ(ホルン)
・古風なメヌエットM.7(1895/1929)(1954.5.11録音)
・高雅で感傷的なワルツM.61(1911/12)(1954.5.11録音)
・組曲「マ・メール・ロワ」M.60(1908-10/11)(1954.6.26録音)
アンドレ・クリュイタンス指揮フランス国立放送管弦楽団

春の陽気に触発され、音楽の温もりが匂い立つ。
何とも春の匂いに僕はワクワクする。冒頭「亡き王女のためのパヴァーヌ」に見る慈悲深さ、そして組曲「マ・メール・ロワ」に垣間見る弾ける喜びの音色は、クリュイタンスの真骨頂(それはやっぱり後のステレオ再録音盤より一層美しい)。

第1曲「眠れる森の美女のパヴァーヌ」
第2曲「親指小僧」
第3曲「パゴダの女王レドロネット」
第4曲「美女と野獣の対話」
第5曲「妖精の園」

彼は今しも『月光』ソナタを弾こうとしているピアニストを思い描いた。また、ベートーヴェン尾音楽で神経が痛むと言ってびくびくしているヴェルデュラン夫人の顔つきを。「ばかな女だ、嘘つき女だ!」と彼は叫んだ。「おあけにあれは〈芸術〉を愛しているつもりなんだ!」
~同上書P223

クリュイタンスのラヴェルは、僕たちの意識を俗世間から引き離し、高貴な、神がかりの世界に誘ってくれる。何と崇高なことだろう。

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ヴィントガッセン ニルソン ホッター シュトルツェ ナイトリンガー サザーランド ショルティ指揮ウィーン・フィル ワーグナー 楽劇「ジークフリート」(1962.5&10録音)https://classic.opus-3.net/blog/?p=36017https://classic.opus-3.net/blog/?p=36017#respondTue, 23 Apr 2024 13:54:06 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=36017

ブリュンヒルデの目覚め。楽劇「ジークフリート」第3幕の感動的な山場。 ブリュンヒルデ こんにちは、太陽よ! こんにちは、光よ! こんにちは、輝く昼間よ! 私は長いこと眠っていた。 ようやく目覚めたのね。 私を目覚めさせた ... ]]>

ブリュンヒルデの目覚め。
楽劇「ジークフリート」第3幕の感動的な山場。

ブリュンヒルデ
 こんにちは、太陽よ!
 こんにちは、光よ!
 こんにちは、輝く昼間よ!
 私は長いこと眠っていた。
 ようやく目覚めたのね。
 私を目覚めさせた英雄は誰かしら?
ジークフリート(彼女の眼差しと声に心を打たれ、厳粛な気持ちになり、金縛りにあったように立ち尽くす)
 岩山の周りで燃えていた炎を
 くぐり抜けてきました。
 僕があなたの硬い兜を切り破りました。
 あなたを目覚めさせた僕はジークフリートという名です。

井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P162

一方、ハーゲンの槍によって急所を射抜かれたジークフリートの最期。

ジークフリート(座った姿勢で、2人の家臣に支えられ、目を輝かしく見開く)
 ブリュンヒルデ!聖なる花嫁よ!
 目を覚ますのだ!目を開けよ!
 誰がお前を再び眠りに閉じ込めたのか?
 誰がお前を眠りで縛り不安にさせたのか?
 お前を目覚めさせに来たぞ、接吻して目覚めさせ、
 そして花嫁の甲冑を解くと・・・
 ブリュンヒルデの喜びが微笑む!
 ああ!この目は今や永遠に開いている!
 ああ、この喜ばしい息づかい!
 何と甘い死!何と幸せな衝撃!
 ブリュンヒルデが私に挨拶をする!

~同上書P219

死をもって夜の帳が降りる。楽劇「神々の黄昏」第3幕第2場のクライマックス。
ワーグナーの天才は、これらのシーンに同じ音楽を使った。
つまり、覚醒と死とは同じ次元の事象だということを彼は示したのである。
ジークフリートは、それを「甘い死」だと表現する。

生と死の境界は本来ないということだ。
強いていうなら、僕たちの煩悩が輪廻の輪から抜け出すことを忌避していたのだといえまいか。

・ワーグナー:楽劇「ジークフリート」
ヴォルフガング・ヴィントガッセン (ジークフリート、テノール)
ビルギット・ニルソン (ブリュンヒルデ、ソプラノ)
ゲルハルト・シュトルツェ (ミーメ、テノール)
グスタフ・ナイトリンガー (アルベリヒ、バリトン)
ハンス・ホッター (さすらい人、バス・バリトン)
ジョーン・サザーランド (森の小鳥、ソプラノ)
クルト・ベーメ (ファフナー、バス)
マルガ・ヘフゲン (エルダ、アルト)
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1962.5&10録音)

楽劇「ジークフリート」を聴くなら今僕はショルティ盤を第一に推す。
室内楽的な響きの音楽に、まるで映画でも見るかのような色彩感と人工性が逆にこの楽劇の表現に華を添える。やはり第3幕が圧倒的に素晴らしい。
ジークフリートとの邂逅と愛にブリュンヒルデは応える。

私は不死身でした!これからも不死身でしょう、
不死身のままあなたを憧れ、甘い歓びに浸り、
不死身のままあなたの幸福を願っています!
おおジークフリート!素晴らしい人よ!世界の宝よ!
大地の生命よ!晴れやかな英雄よ!
離れて、ああ離れて!私から離れてください!
そんな近くに来ないで!
壊してしまうような力で
私を征服しないでください!
あなたにとって大切な私を打ち砕かないで!

~同上書P165

ブリュンヒルデの、いわばジークフリートへの愛の告白。
「ジークフリート牧歌」の元となる音楽の途方もない優しさは、ショルティ盤の真骨頂。
「コジマの日記」をひもとく。

子供たちよ、この日のことは、わたしが感じたことも、わたしの気分も、何ひとつ言葉にできません。事実だけを淡々と書き綴ることにしましょう。目を覚ましたわたしの耳に飛び込んできた響き。どんどん膨れ上がってゆくその響きは、もはや夢の中のこととは思えません。鳴っていたのは音楽、それもなんという音楽でしょう。それが鳴りやむと、リヒャルトが5人の子供たちを連れてわたしの部屋へ入ってきて、「誕生祝いの交響楽」のスコアを手渡してくれたのです。わたしは涙にかき暮れ、家じゅうが涙につつまれました。リヒャルトは階段にオーケストラを配置して、わたしたちのトリープシェンを永遠にきよめたのです。曲の名は《トリープシェン牧歌》(後の《ジークフリート牧歌》)。
(1870年12月25日、日曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P274-275

事実は小説よりも奇なり。
リヒャルト・ワーグナーのヒューマニスティックな側面を垣間見る。
あえて目覚まし時計のように奏でられた音楽は、文字通りブリュンヒルデの覚醒の音楽にもつながる点が奇蹟のよう。あまりに美しい。

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ショルティ指揮ウィーン・フィル ワーグナー 歌劇「タンホイザー」序曲(1961録音)https://classic.opus-3.net/blog/?p=36014https://classic.opus-3.net/blog/?p=36014#respondMon, 22 Apr 2024 14:37:15 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=36014

それゆえ、私の『タンホイザー』を伝統的なオペラから明確に区分する第二の点として挙げたいのは、この作品が下敷にしている演劇性ゆたかな台本である。この台本が本来の意味での文学作品として高い価値を持っているなどと主張するつもり ... ]]>

それゆえ、私の『タンホイザー』を伝統的なオペラから明確に区分する第二の点として挙げたいのは、この作品が下敷にしている演劇性ゆたかな台本である。この台本が本来の意味での文学作品として高い価値を持っているなどと主張するつもりは毛頭ないが、伝承世界の不思議な性格を基調としながらも演劇的展開の筋を一貫して通し、オペラ台本に求められる月並な条件などは構想を練る時にも書き下ろす時にも一顧だにしなかった、ということだけは強調しておいてもよいだろう。つまり私のねらいは、何よりもまず聴衆を演劇行為そのものに釘づけにして一瞬たりともその進行を見失わせることのないよう気を配る一方で、逆に音楽による装飾はさしあたりすべて演劇的行為を表現するための手段としか映らないようにするということであった。こうして台本の内容に関して譲歩しなかったからこそ、音楽の構成においても一切の妥協を拒否することができたわけで、両者が相俟ったところにこそまさしく私の「革新」の眼目があるのだが、それは、私の「未来音楽」が目指している方向はこんなところではないかと世間で勝手に誤解しているような、絶対音楽流のしたい放題では断じてない。
「未来音楽」(1860)
三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P180

物語の素晴らしさをそのまま音楽として表現できたのは、リヒャルト・ワーグナーの天才によるものだ。台本と音楽との完璧な融合を目指し、それを成したのが歌劇「タンホイザー」だった。それは、そもそも序曲の完全さからも垣間見ることができる。

・ワーグナー:歌劇「タンホイザー」序曲
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1961録音)

歌劇中のすべての主要主題を駆使し、シーンを見事に映し出す完璧なる序曲。
若きショルティの棒は相変わらず劇的で、(ある意味)軽い(せせこましい)。
しかしながら、ここにはショルティの若き血潮が渦巻いていて、聴くごとに魂にまで響く力が漲る。

「タンホイザー」のラスト・シーン。

若い巡礼たちの合唱
万歳!恩寵の奇跡よ、万歳!
救済が世界に与えられた!
夜の聖なる時に
主は奇跡を通して告げられた。
司祭の持つ干からびた杖から
緑の新芽を芽生えさせた。
地獄の業火に焼かれる罪人も
これで救済されるでしょう!
奇跡を通して恵みを得た者に
至る所で伝えましょう!
あまねく高き所に神はおられる、
神の慈悲は真なり、と!
ハレルヤ!ハレルヤ!
ハレルヤ!

井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集1―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P217

世界の本質は慈悲と智慧。

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ヴィントガッセン ニルソン アダム ナイトリンガー ベーム指揮バイロイト祝祭管 ワーグナー 楽劇「ジークフリート」(1966.7.26Live)https://classic.opus-3.net/blog/?p=36011https://classic.opus-3.net/blog/?p=36011#respondSun, 21 Apr 2024 13:53:38 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=36011

あらためて「コジマの日記」。この詳細な日常の記録は、リヒャルト・ワーグナーを愛する者にとって必携の書だ。作曲家の思考の断片はもちろんのこと、他愛もない冗談から哲学的談義まで、その生活がリアルに語られる。そこには極めてプラ ... ]]>

あらためて「コジマの日記」。
この詳細な日常の記録は、リヒャルト・ワーグナーを愛する者にとって必携の書だ。作曲家の思考の断片はもちろんのこと、他愛もない冗談から哲学的談義まで、その生活がリアルに語られる。そこには極めてプライベートな記述もあり、興味深い(そもそも公にされることを目的にしたものでないゆえ、コジマにしてみれば腹の内を探られるようで本意ではないだろうが)。

楽劇「ジークフリート」にまつわるエピソード。1872年1月のこと。

《第九交響曲》の手書きの楽譜が届く。はてしない喜び。ショットがとてもよい状態で保管しておいてくれた手稿は、優に40年以上も昔のもの。それが今、わたしの手もとにある。リヒャルトは冗談めかして「これできみは、わが人生のすべてを身辺に集めてくれたことになる。きみがいなければ、わたしは自分の人生について何も知らなかっただろう」と言った。
(1872年1月15日月曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P92

ベートーヴェンの手稿譜を手に入れたことへの賞賛。その日の夜は、どうやらショーペンハウアーを読み、コジマは「ジークフリート」第3幕のなぞり書きをしていたらしい。翌日も翌々日もコジマはなぞり書きを続け、それは2月26日にようやく終える。

1872年6月7日金曜日の日記。

おしゃべりはとどまるところを知らず、彼はこうも話した。「そうだ、人は年をとってようやく自分の人生がわかるようになる。考えてみれば、《トリスタン》を書くようにと、わたしを激しく駆り立てたものは何であったろう。あれはちょうど、きみとハンスが初めてチューリヒを訪れた頃だった。それまで、わたしはきわめて順調に《ジークフリート》の最初の2幕を完成させていた。今なら、ミュンヘンでの《トリスタン》上演へとつながっていった因果の連鎖をすっかり見てとれる。この例ひとつとってもわかるように、何事にも超自然の力がはたらいているわけで、意識の内に入り込んでくるものなど迷妄にすぎない。全体を見渡せる者の目には、各々の瞬間に見えていたものとはまったく違う様相が浮き彫りになる。ロミオの心中に途方もない情熱が芽生えたとき、彼の意識はそれをロザリンデへの思いととらえていた。意識とは何か? それは、眠れぬことの多い夜に続いて訪れる朝であり、昼の幻影なのだ。そして、わたしには本心からそう思えるのだが、運命は人間のために配慮してくれると考えて安心してもよいのではないだろうか。自分の人生を眺め渡してみれば、ミンナとの結婚も絶望的な面ばかりではなかったと思うし、奇蹟だって起きた。もちろん奇蹟といっても、受胎告知などとは違う、もっと苦しい道筋をたどってのことではあったが。わたしのために尽くそうと望み、実際にはまた尽くしてくれた女とこうして出会い、心から親密な関係を結んだことがどれほど救いになったか、自分でもよくわかっている。なにしろわたしはずっと逃走寸前の状態にあったのだから」。
~同上書P247-248

出逢う人・事・物すべてが按配の中にあることは、後々になってわかるものだが、何事にも超自然の力が働いていることを見抜いているワーグナーの眼力に感心する。
果たして、何年もの時を経て作曲が再開された、「ジークフリート」第3幕の素晴らしさ。

・ワーグナー:楽劇「ジークフリート」
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート、テノール)
エルヴィン・ヴォールファールト(ミーメ、テノール)
テオ・アダム(さすらい人、バリトン)
グスタフ・ナイトリンガー(アルベリヒ、バリトン)
ビルギット・ニルソン(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
クルト・ベーメ(ファフナー、バス)
ヴィエラ・ソウクポヴァー(エルダ、アルト)
エリカ・ケート(森の小鳥の声、ソプラノ)
カール・ベーム指揮バイロイト祝祭管弦楽団(1966.7.26Live)

録音で聴くと少々軽率な(?)印象の音響に始まるが、それは時間の経過とともに重みを増して行く。第3幕とそれ以前の幕の作曲に10数年のブランクのある点が「ジークフリート」に違和感を残すところだが、しかし逆にそれこそが楽しみどころだ。

第3幕第3場岩山の頂上でのジークフリートとブリュンヒルデの邂逅。

ジークフリート
男じゃない!
燃えるような魔力が僕の心の中で疼き、
火のような不安が僕の目を捉える。
地面が揺れ、目眩がする!
(彼は極度の胸苦しさに陥る)
誰に助けを求められよう?
母さん!母さん!僕のことを忘れないで!
(彼は失神したようにブリュンヒルデの胸に倒れる。長い沈黙。それから溜息をつきながら起き上がる)
どうしたらあの娘を目覚めさせ、
彼女の目を開けさせられるのか?
彼女は僕の目を開いてくれるだろうか?

井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P161

ジークフリートの接吻により目を覚ましたブリュンヒルデはジークフリートとの対話の中でますます覚醒して行く。

ブリュンヒルデ
私の苦しみの闇に、太陽の光がさすわ!
おおジークフリート!ジークフリート!
私の不安を見て!
(彼女の表情から、彼女の心に心地よい光景が浮かんだことがわかる。その光景から目を転じ、優しい心持ちで再びジークフリートを見る)
私は不死身でした!これからも不死身でしょう、
不死身のままあなたを憧れ、甘い歓びに浸り、
不死身のままあなたの幸福を願っています!
おおジークフリート!素晴らしい人よ!世界の宝よ!
大地の生命よ!晴れやかな英雄よ!

~同上書P165

音楽に刷り込まれたカール・ベームの思念が聴く者の心を抉る。
「ジークフリート」終幕終場の集中力に舌を巻く。
ブリュンヒルデを演ずるニルソンの輝ける悦び、そして、ジークフリートに扮したヴィントガッセンの勇敢なる、そして大いなる慈悲。

過去記事(2013年7月16日)

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ノーマン カラヤン指揮ウィーン・フィル ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲とイゾルデの愛の死ほか(1987.8.15Live)https://classic.opus-3.net/blog/?p=36003https://classic.opus-3.net/blog/?p=36003#respondSat, 20 Apr 2024 14:46:00 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=36003

リヒャルト・ワーグナーの著作はいずれも含蓄に富む。 序曲についてのこのような至高の理念が『エグモント』序曲以上に美しく現れている例を私は知らない。この序曲の終結部はドラマの悲劇的理念をその尊厳のきわみまで高め、と同時に恐 ... ]]>

リヒャルト・ワーグナーの著作はいずれも含蓄に富む。

序曲についてのこのような至高の理念が『エグモント』序曲以上に美しく現れている例を私は知らない。この序曲の終結部はドラマの悲劇的理念をその尊厳のきわみまで高め、と同時に恐るべき威力をもった完全な音楽作品を私たちに提示する。これに対し、今示したばかりの見解に完全に矛盾すると見える、きわめて含蓄に富んだ例外的な作品を私はただ一つ知っている。『コリオラン』序曲である。しかし、この堂々たる悲劇作品をより仔細に観察してみるなら、悲劇という主題の把握にちがいがあったことは次のようにして説明がつく。つまり悲劇の理念はこの曲では、まったく主人公の個人的運命に含まれているのである。主人公コリオレイナスの他人と相容れない自負心、すべてを凌駕する、その尊大で強圧的な性格は、それがくずおれないかぎり、私たちの関心、同情をそそらない。この破滅を不安とともに私たちに予感させ、最後にそれが現実に恐怖を伴なって現れる様を描きあげたのは、子の巨匠の比類ない手柄である。
「序曲について」(1841)
三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P55

その分析的思考、360度視野の見解、斬新な切口はリヒャルトならではの視点だろう。
彼が最終的に示唆するのは、序曲に変わる方法、すなわち「レオノーレ」序曲を示唆しつつ、新しい楽劇の理念の一部をなす「前奏曲」という形式だった。
その最初の例が「ローエングリン」であったわけだ。しかし、逆に考えるなら、ベートーヴェンの衣鉢を継いだ序曲の最終形は、少なくともワーグナーにとっての最終形は「タンホイザー」序曲だった。

カラヤン最晩年の「タンホイザー」序曲が素晴らしい。
歌劇中の主要なテーマによって織り成される序曲の含まれる根源的な力に僕は感化される。
そこにあるのはあくまでカラヤンの音だ。磨かれ抜かれた美しい音楽は、女性的な側面が前面に押し出された名演奏だった。

そして、輪郭明晰な「ジークフリート牧歌」の流れるような美しさはカラヤンの真骨頂。ほとんど映画音楽のようなポピュラーな音作りに感心する。

ワーグナー:
・歌劇「タンホイザー」序曲
・ジークフリート牧歌
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」第3幕イゾルデの愛の死
ジェシー・ノーマン(ソプラノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1987.8.15Live)

ザルツブルクは祝祭大劇場でのライヴ録音。
期待したノーマンによる「イゾルデの愛の死」は、あまりにノーマンの癖(?)が反映され過ぎていて個人的には避けたいところ。しかし、第1幕前奏曲についてはカラヤンらしい錬磨された情念のうねりが炸裂し、濃厚な音楽が堪能できる。

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ホフマン ヴェイソヴィチ モル ヴァン・ダム ニムスゲルン フォン・ハーレム カラヤン指揮ベルリン・フィル ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルジファル」(1980.1録音)https://classic.opus-3.net/blog/?p=36000https://classic.opus-3.net/blog/?p=36000#respondFri, 19 Apr 2024 13:55:52 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=36000

「英雄精神とキリスト教—『宗教と芸術』のための補足 その3—」(1881)の書き出しは次の通りである。 人類の再生Regenerationの必要性を認めて人類を教化する可能性に思いを致すとき、さまざまな障害が立ちふさがっ ... ]]>

「英雄精神とキリスト教—『宗教と芸術』のための補足 その3—」(1881)の書き出しは次の通りである。

人類の再生Regenerationの必要性を認めて人類を教化する可能性に思いを致すとき、さまざまな障害が立ちふさがってくる。人類の没落を肉体的な零落から説明しようとして、植物性の食物に取って代わった動物性食物が堕落の原因であると考えてきた古今の高潔な賢者たちの言説に答えを求めたとき、私たちは否応なく自分たちの肉体の変質に思い至り、損われた血液から気質の劣化が生じ、さらにそこから道徳上の禀質の劣化が生じたという結論を引き出した。
(宇野道義訳)
三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P323

今の僕にとってこの論は文字通り是。何よりこの時代のワーグナーの思念の鋭敏さ、的を射た、本質的な思想に驚くばかり。知の巨人だったワーグナーは古今東西あらゆる知見を導入して、食という観点から人類の堕落を証明しようとして見せる。

飢餓こそが人間を肉食に追いやった最大の原因だとする言説にワーグナーは異を唱える。

人間を殺生や肉食による栄養摂取へと駆り立てたのが、もともと飢餓だけだったに相違ないということ、しかしこのやむにやまれぬ事態が、北方における肉食が自己保存のための義務として定められていたと信ずる人びとが主張しているように、ただ単に寒冷な地方への移動によって生じたのでないということは、次のような明明白白の事実が示すところである。すなわち、十分に穀物を摂取できる大民族は、厳しい風土においてすらほとんど菜食だけで暮らしており、それによって活力や耐久力を失うことはないのだが、このことは、菜食をしているきわだって長寿に恵まれたロシアの農民たちを見れば分かることである。菜食を主にしている日本人についても、極めて鋭敏な頭脳を持ちながら最高度に勇猛果敢であることがよく知られている。
~同上書P236

事実から、状況証拠から読み解くワーグナーの言説は実に説得力がある。そして、彼は続けと次のように書く。

人間は自然に反した栄養摂取の結果、人間にしか見られない病気で衰え、天寿をまっとうすることもなければ穏やかな死を迎えることもなく、むしろ、人間のみが知る心身の苦患や苦難に苦しみながら虚しい生を送り、絶えず死の脅威におびえながら悶々とした日々を送るのである。
~同上書P237

人類のこういった堕落を回復する手立てとして宗教に代わる新宗教の確立をワーグナーは提唱したのだが、それこそが音楽芸術(ムジークドラマ)を指していた。未だ道が公開普伝の時代でなかったがゆえの苦悩。果たして現代ならワーグナーはそのことを自覚し、自らも実践しようとしたのかどうなのか。彼の真我良心が真実を、根源をとらえていたのかどうなのか、今となっては分からない。極めつけは次の箇所だ。

人間の罪業に関する教義は、それに先立つ生きとし生けるものの一体性をめぐる認識と、感覚に基づいた見地の迷妄をめぐる認識に端を発しているのだが、私たちは感覚に欺かれて千変万化する多様性や差異に目を奪われ、生きとし生けるものの一体性を見失っている。したがってこの教義は、きわめて深遠な形而上学的認識から生み出されたものであって、婆羅門がこの生命ある世界における多彩をきわめた現象を「汝はそれなり! TAT TVAM ASI」と意味づけて示したとき、私たちとともに生を享けた生き物を殺すことは、自らの肉を切り裂き、貪り啖う所業にひとしいのだという認識が私たちのうちに呼びさまされたのであった。
~同上書P408

ここにワーグナーが最終的に至った思考のすべてが網羅されている。
そして、その実践こそが舞台神聖祭典劇「パルジファル」に昇華されるのである。

ちなみに、「1882年の舞台神聖祝祭劇」(1882)という小論でワーグナーはこう書いた。

こうして私たちは—聴覚と視覚において、私たちを押し包んでいる雰囲気が私たちの感受性の総体に及ぼした作用も手伝って—浮世離れした気分にひたることができたのであり、その自覚は、いずれその浮世に帰っていかねばならないという不安のうちに、かえって鮮明に浮き彫りにされていたのである。大体『パルジファル』という作品そのものが、浮世を離れた作者の胸のうちで芽生え、徐々に育まれたのであった。あけっぴろげな感覚と自由な心の持主なら、ペテンと欺瞞と偽善を通じて組織化され、合法化された殺人と収奪の世界を一生目の当たりに見ているうちに、時には身の毛もよだつようなむかつきを覚えて、この世を見捨てたくなるのが当然ではあるまいか? そんなとき彼のまなかいに浮かぶのはなんだろう? おそらく死の深淵である場合が多いだろう。しかし他と違った使命を与えられ、そのために運命から特別の扱いを受ける人間の前には、浮世の真実の写し絵そのものが、救済の予兆を秘めたこの世の内奥の相を現わすだろう。そしてこの正夢にも似た写し絵のために欺瞞に満ちた現実世界を忘れていられること、—苦悩にまみれた誠実を貫いてこの世の悲惨を認識した当人は、まさしくこの一事を自らの誠実に与えられた褒美と見なすのである。そんな彼が、その写し絵を書き上げるさいに誤魔化しや欺瞞の手を借りることなど、そもそも有り得ないことであった。
~同上書P366-367

リヒャルト・ワーグナーの報告を読み、僕は、カラヤンが満を持して録音した晩年の「パルジファル」の録音を思い出す。

・ワーグナー:舞台神聖祭典劇「パルジファル」
ペーター・ホフマン(パルジファル、テノール)
クルト・モル(グルネマンツ、バス)
ドゥニャ・ヴェイソヴィチ(クンドリー、メゾソプラノ)
ジョゼ・ヴァン・ダム(アンフォルタス、バス)
ヴィクター・フォン・ハーレム(ティトゥレル、バス)
ジークムント・ニムスゲルン(クリングゾール、バス)
クラエス・アーカン・アーンシェ(第1の聖杯騎士、テノール)
クルト・リドル(第2の聖杯騎士、バス)
マリヨン・ランブリクス(第1の小姓、ソプラノ)
アンネ・イェヴァング(第2の小姓、アルト)
ハイナー・ホプフナー(第3の小姓、テノール)
ゲオルグ・ティッヒ(第4の小姓、バス)
バーバラ・ヘンドリックス(第1グループ第1の花の乙女、ソプラノ)
ジャネット・ペリー(第1グループ第2の花の乙女、ソプラノ)
ドリス・ゾッフェル(第1グループ第3の花の乙女、メゾソプラノ)
インガ・ニールセン(第2グループ第1の花の乙女、ソプラノ)
オードリー・ミッチェル(第2グループ第2の花の乙女、メゾソプラノ)
ロハンギス・ヤシュメ(第2グループ第3の花の乙女、コントラルト)
ハンナ・シュヴァルツ(声、アルト)
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ワルター・ハーゲン=グロル(合唱指揮)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1980.1録音)

ちょうどこの時期、カラヤンは発作を起こし、以後身体に障害を残す状態に陥っている。
ベルリン・フィルとの40回にも及ぶリハーサルを経て生み出された「パルジファル」は、畢生の録音であり、幾度聴いても新たな発見がある、美しい演奏だと思う。
カラヤンらしい磨かれた、絶大なるエネルギーを放出する傑作は、40余年を経た今も録音史上に燦然と輝く逸品として光彩を放つ。

第1幕は前奏曲から一部の隙もない名演奏。透明感はもちろん重心の低い、晩年のリヒャルトが目指した「再生論」に根ざした(?)麗しい音楽が心に響く。
第1幕に首っ丈。

崇高なる場面転換、音楽がうねる。
そして、ヴァン・ダムによるアンフォルタスの言葉に心が動く。

私は聖杯を仰ぐことを
渇望せねばならない。
魂の奥底から懺悔をして
救世主の御許に到達せねばならない。
時は近づいた。
一条の光がこの聖餐式にさし、
聖杯の覆いが取られる。
(ぼんやりと前を見つめながら)
聖杯に集められた救世主の血が
燃えるように力強く輝きだす。
すると痛みと至福の喜びが私の体内を走り、
聖なる血が
私の心臓に流れ込むのを感じる。

井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P306

それに対する少年たちの、パルジファルの到来を待つ希望の声よ。

共に苦しみて知に至る、汚れなき愚者、
私が選んだその男を待ちなさい!

~同上書P307

過去記事(2017年12月15日)
過去記事(2007年5月10日)

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モントゥー指揮ボストン響 ドビュッシー 3つの交響的素描「海」(1954.7.19録音)ほかhttps://classic.opus-3.net/blog/?p=35996https://classic.opus-3.net/blog/?p=35996#respondThu, 18 Apr 2024 13:27:54 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=35996

空想にふけっていたって・・・考えをまとめていたのか・・・? 作品を下げていたのか・・・? 子供っぽい虚栄心が疑問符をこうして持ちだすそのぶんだけ、何としてでも追いはらう必要があるのは、人びとがこれまであまりにもしがみつい ... ]]>

空想にふけっていたって・・・考えをまとめていたのか・・・? 作品を下げていたのか・・・? 子供っぽい虚栄心が疑問符をこうして持ちだすそのぶんだけ、何としてでも追いはらう必要があるのは、人びとがこれまであまりにもしがみついて来すぎた一つの観念である。疑問符は、他人よりすぐれている風をしたがるばかげた偏執を、どれも語るにおちている。だが他人に立ちまさることは、自分自身にうち勝とうという美しい欲望と結ばれぬかぎり、かつて大骨折りにあたいしたためしがない・・・それは単にきわめて特殊な錬金術にすぎず、しかもそのために自分の大切な小さな個性を犠牲にしなければならない・・・耐えがたいことである上に、絶対に収穫がない。
(クロッシュ氏・アンティディレッタント)
平島正郎訳「ドビュッシー音楽論集 反好事家八分音符氏」(岩波文庫)P9-10

比較を放下して自らの信念に立ち上がるしかない。
孤高のクロード・ドビュッシー。

エロスと創造力は一体なのかどうなのか。
革新的な、いかにもドビュッシーらしい、うねりの交響的素描に僕はいつも感動する。
誰のどんな演奏でももともとの音楽的効果が抜群だろうからか、これほどに内なる官能と外環境の描写を結びつけた傑作は他をまったく凌駕する。

虚ろでない、鮮明な、そして現実的な音楽に言葉を失う。
ピエール・モントゥーの棒も何と鮮やかなのだろう。

ドビュッシー:
・管弦楽のための3つの交響的素描「海」(1903-05)(1954.7.19録音)
・管弦楽と合唱のための「夜想曲」(1897-99)(1955.8.15録音)
・管弦楽のための3つの交響的素描「海」から第1楽章「海上の夜明けから真昼まで」(ステレオ・テイク)(1954.7.19録音)
バークシャー祝祭女声合唱団
イヴァ・ディー・ハイアット&ヒュー・ロス(合唱指揮)
ピエール・モントゥー指揮ボストン交響楽団

曖昧さを排除した独墺系の権化ともいうべき「海」の真骨頂!
(第3楽章のステレオ・テイクというおまけつきがまた粋だ)
一方の、3つの夜想曲のまた素晴らしさ。第3曲「シレーヌ」における女声合唱と管弦楽との一つになった演奏に聖なる色香を思う。

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スティーヴンス デラ・カーザ ピータース モントゥー指揮ローマ歌劇場管 グルック 歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」(1957.6録音)https://classic.opus-3.net/blog/?p=35992https://classic.opus-3.net/blog/?p=35992#respondWed, 17 Apr 2024 08:16:04 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=35992

辻邦生の旅の記録。 ぼくはあちこちをすくなからず旅した。インドもアフリカも南太平洋もそれぞれに素晴らしかった。だが、単純にぼくが幸福になれるのは、地中海にゆくときなのだ。地中海ではただ海を見、貧しげな波止場を歩くだけで、 ... ]]>

辻邦生の旅の記録。

ぼくはあちこちをすくなからず旅した。インドもアフリカも南太平洋もそれぞれに素晴らしかった。だが、単純にぼくが幸福になれるのは、地中海にゆくときなのだ。地中海ではただ海を見、貧しげな波止場を歩くだけで、突然、充実した光のような気持に包まれる。ぼくはその一瞬の恍惚としたゆらめきの中で自分を忘れていられる。
その理由は、地中海こそがぼくらにもっとも激しく想像力をかきたてるものを持っている海だからだ。

「地中海の誘惑」
「辻邦生全集17」(新潮社)P248

いまだ日本人にとって海外旅行など夢のまた夢であった時代の、地中海の発する誘惑と魔法。
冒頭のこの件を読むだけで恍惚とした気分を味わえる。

ジャン・グルニエが言うように、なぜ彼らはバールに坐り、ほとんど何もしないで、あのような生の充実感を持つことができるのだろうか。彼らは、お話にならないくらい貧乏だ。だが、今日暮せる以上のものは絶対に稼ごうとはしない。彼らは〈いま〉という時のなかに、まるで象嵌されたように、はまりこみ、明日のことなど考えないのだ。
「“いま”という時のエクスタシー」
~同上書P249

文明の進化とともに人間が忘れ去ったものが、そこにはあった。

現代社会の信じられない生活のスピード感のことを考えると、神経症患者が多くなるのも当然だと思う。物にはそれにふさわしい時間があるというのが、ぼくの信念だが、現代文明はそれを破壊して、無理な速度を押しつけるのだ。神経が極度に緊張するのは当然だろう。
ローマからパレルモまでぼくらは1時間で飛ぶが、ゲーテはナポリから5日間かかり、そのうえ船酔いにさんざん悩まされた揚句、ようやく魔術的雰囲気に包まれた南国の港パレルモに着くのである。
パレルモに飛行機で向う気分も悪くないが、やはりどこか具体的なものにぴったり貼りついたという感じはない。人は速さを簡便さと勘違いするが、実は違う。具体物の持つ生命感を犠牲にしているのだ。おそらくゲーテが空路パレルモに入ったら、彼の植物観はそれほど衝撃を受けなかったかもしれない。

「ローマからシチリアへ」
~同上書P252

「具体物の持つ生命感を犠牲にしている」という言葉が重い。
トーマス・マンを愛した辻邦生の感性は本物だと思う。ゲーテがイタリアに旅したのはワイマール公国での現実的で平凡な日々に窒息しそうになっていたからだそうだ。

ゲーテは感情や情熱や想像力を高揚させない科学・学問は人間に何の役にも立たないと信じた。科学は生命ある自然をばらばらに分解し殺してしまう。それをもう一度生命ある自然に戻すべきだ—ゲーテはそう考える。
「パレルモでのゲーテ幻想」
~同上書P252

図らずもルソーと同様の境地に誘われるゲーテの思考。
ならば科学と自然とをいかに両立させるかだ。

欧州を旅する辻の紀行を読みながら僕は数多の版を持つグルックの歌劇を思った。
歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」の幻想、というより実に現実的な、人間の煩悩が引き起こす災難と、それを超える愛、慈しみの力の荘厳さ。
古い録音だが、ピエール・モントゥーの指揮する音楽に深みと勢いを、生命ある自然を僕は大いに感じる。

・グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」(イタリア語原典版)
リーゼ・スティーヴンス(オルフェオ、メゾソプラノ)
リーザ・デラ・カーザ(エウリディーチェ、ソプラノ)
ロバータ・ピータース(愛の神、ソプラノ)
ローマ歌劇場合唱団
ジュゼッペ・コンカ(合唱指揮)
ピエール・モントゥー指揮ローマ歌劇場管弦楽団(1957.6.15-26録音)

近代オーケストラによる分厚い音がグルックの音楽に箔をつける。罪を犯そうが、あるいは過ちを犯そうが、命そのものにアクセスできるなら、最後は愛そのものに行き着くことをグルックは教えてくれる。モントゥーの創造する音楽はどの瞬間も生き生きとし、同時に明るい。そして、3人の歌手たちの名唱は、今となっては古びた印象を与える場面もあるが、いずれもが人間らしく(?)て美しい(スティーヴンスのオルフェオは堂々たる凄味)。

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King Crimson “Lark’s Tongues in Aspic Part 2” (1973.10.12Live)https://classic.opus-3.net/blog/?p=35988https://classic.opus-3.net/blog/?p=35988#respondTue, 16 Apr 2024 11:59:58 +0000https://classic.opus-3.net/blog/?p=35988

アルバム「太陽と戦慄」を初めて聴いたのは1984年のことだった。アナログ・レコードに針を下ろし、最初の音が出るや、僕は文字通り戦慄した。当時は、一昔前の、ずっと昔のバンドのレコードだという印象があったのだが、考えてみれば ... ]]>

アルバム「太陽と戦慄」を初めて聴いたのは1984年のことだった。
アナログ・レコードに針を下ろし、最初の音が出るや、僕は文字通り戦慄した。
当時は、一昔前の、ずっと昔のバンドのレコードだという印象があったのだが、考えてみればわずかに10年前の、どちらかというと時代的に手の届く、現在のバンドの音楽だったことがわかる。

今となっては10年前などというのは昨日のことのように思われるのだから時間感覚というものの不思議。

映像処理は確かに古くさいものだが、音楽の斬新さ、演奏に漲るエネルギーは、他の何ものをも凌駕し、時代を超越する。時間と空間を超えた存在が、あのときのキング・クリムゾンであり、ロバート・フリップが主導権を握って再現したとしてもそれはまったくの別物。
1972年から74年、活動期間わずか2年間に過ぎないキング・クリムゾンの格別なる光輝に言葉がない(ミッドナイト・スペシャルでのライヴ演奏!)。

Personnel
Robert Fripp (electric guitars, devices)
John Wetton (bass)
Bill Bruford (drums, timbales, cowbel)
David Cross (violin)

「耳をつんざくほどの音量だが美しい、彼らは合成された電撃の壁を築いた。それはまるで爆弾がロシア革命の最後の日に炸裂したときに、ワーグナーがニーチェを肉挽き機に蹴り入れたかのような音だった」と一人の錯乱した評論家は書いた。
PCCY-00393ライナーノーツP54

それほどの衝撃だったことは映像から創造するのも容易い。
実際、この演奏をその場で聴いたならのけ反って卒倒しただろう。

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