僕が最初に聴き惚れたのはミッシャ・マイスキーによる最初の録音だった。
若きマイスキーの色香溢れる演奏は、豊潤な音色で、それこそ感受性を刺激する名演奏だった。
バッハは厳格で機械的だと思われていることが多いが、そうではない。彼はたえず民俗芸能から着想を得た、感受性豊かな音楽家だ。だから、彼の感覚で演奏しなければならない。理解し、感じることが必要だ。
(パブロ・カザルス、1950年)
~ジャン=ジャック・ブデュ著/細田晴子監修/遠藤ゆかり訳「パブロ・カザルス―奇跡の旋律」(創元社)P79
カザルスの言うとおり、年齢を重ねれば重ねるほどバッハの精神を理解することが容易くなるように思う。そして、余分なものが削がれ、凝縮された小宇宙のこれ以上はない美を発見するのだが、それはまさに聖俗の中庸を貫くバッハの真髄はすべての原点だ。
マイスキーからカザルスを経てロストロポーヴィチへ。
僕の組曲体験の(ある種)プロセスだ。
ロストロポーヴィチは、若い頃からバッハの組曲に畏敬の念を抱き、1952年に第2番と第3番を録音したものの結果に満足できず、準備が整うまで全曲の録音は待つと心に誓っていた。実際には世界中で何度も演奏したが、(先達であるカザルス同様)60歳を超えるまでレコーディングという偉大な事業に着手することはなかった。
彼は、組曲全曲の録音は自分自身のためだけに自費で行うと決めていたという。
ついにレコーディング成ったこの偉大な演奏は、聖俗を超えたところにあり(そのことがようやく理解できた)、無為自然の音楽として今僕の目の前で鳴っている。
フランスはヴェズレーのサント=マドレーヌ大聖堂での録音。
余計な思い入れを排し、ただひたすらにバッハの書いた楽譜を音化する求道者の如くの演奏だと言えまいか。
速めのテンポで颯爽と流す第1番ハ長調BWV1007は、今となってはその中に高貴な舞踊があり、ここに真理があることが見える。そしてまた、第4番変ホ長調BWV1010は、ロストロポーヴィチのバッハへの畏敬が刻印され、ただただ襟を正される実直な演奏だ。
極めつけは第5番ハ短調BWV1011だろう。
この、厳しくも内省的な音楽が、深淵を覗き込む深みと、それゆえに大いなる希望のようなものが刻印される演奏はなかなかない。
人生の多くを世間の注目を浴びて過ごした男にとって、バッハを演奏することは私的な瞑想行為だった。しかし、ロストロポーヴィチが信じていたように、それは聴衆に、彼が「芸術家の孤独」と呼んだものを盗み聴きし、垣間見る機会を与えた。
わたし自身がクレンペラーを見たのは1970年のことだ。それは彼の最後の演奏会のひとつでもあった。ボンのベートーヴェン音楽祭のコンサートである。そのころ、わたしは音楽学を学びはじめて二学期目で、タダ券をもらえたことを誇らしく感じたものだ。クレンペラーはそのときもう85歳。亡命生活とたくさんの病気や怪我の痕跡が刻みこまれた老人で、自分のロンドンのオーケストラを率いてベートーヴェンの《英雄》を指揮した。ひどく遅い演奏だった。それにいつも正確というわけではなかった。だがわたしには、結晶のようにすばらしく透き通り、首尾一貫しているように思えたし、まったく「英雄的」ではなかった。年上の学生たちは、クレンペラーについて囁かれていた数知れぬ逸話を教えてくれたものだ。クレンペラーの怒りの発作、スキャンダル、売春宿通い、そして彼が言い放った冗談とかそういうものだ。上級生たちの話では、クレンペラーは同業者について毒舌をふるっていたという。たとえばジョージ・セルが指揮したドビュッシーの《海》を評して、「ありゃ海じゃない。湖畔のツェル」だと言ったとのことである。
~エーファ・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P2
訳注にあるが、「湖畔のツェル」とは、セル(Szell)+海(See)とオーストリアの観光地ツェル・アム・ゼー(Zell am See=湖畔のツェル)を引っ掛けた洒落らしい。こういうダジャレが即出て来るところも粋なクレンペラーの真骨頂だ。
ちなみに、ボンのベートーヴェン音楽祭は9月に開催されるから、ヴァイスヴァイラーが見たクレンペラーはBBCが放映したツィクルスの後のことだったのだと思われる。クレンペラーの年齢と体調を考えると、月日を追う毎に衰えも目立って行っただろうゆえ、「決して正確というわけではなかった」「まったく英雄的ではなかった」という印象だったこともわからなくはない。それでも一世一代の巨匠のベートーヴェンが実演で享受できたことは彼女にとってかけがえのない経験だっただろうと想像される。
実際、その4ヶ月前のロンドンはロイヤル・フェスティバル・ホールでのツィクルスは、いずれもが空前絶後の、クレンペラーの最終解答たるベートーヴェンだ(僕がはじめてこの映像に触れたのは、2002年頃だったか、クラシカ・ジャパンで放映されたときだった)。
ベートーヴェン:
・交響曲第1番ハ長調作品21
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1970.5.26Live)
終楽章冒頭など、一瞬崩壊しそうになるも、オーケストラはすぐに立て直し、柔和で語り掛けるような変奏に入る。クレンペラーの各奏者への指示は絶妙で、動きにくい身体と両手を使い、果ては鋭い眼光(しかし優しい)までを使って音楽を創造する様子がカメラにしっかり捉えられているところが凄い。
そして、第1番は、同じく重厚で意味深い再現が施されるが、内から醸される音調は平和で牧歌的なものだ。
クレンペラーは書く。
多くの人は、ベートーヴェンは愁いに沈む、悲観的で、陰鬱な性格だったと思っている。それは歪曲された説だ。彼は—とくに若いころの彼は—陽気で快活な人間だった。彼の『第1交響曲』と『第2交響曲』はそれを如実に物語っている。『第4番』ですら幸せに満ちた雰囲気を漂わせている。
「ベートーヴェンについて」(1961)
躁鬱気質だったクレンペラーならではの解釈は、ベートーヴェンの聖なる心境を見事に表現する。
50年代以降、クレンペラーは音楽界の大物、ドイツ・オーストリアのオーケストラ・レパートリーの決定的演奏家、とくにベートーヴェン、ブルックナー、マーラーの交響曲の権威となった。クレンペラーの演奏では、大造りの構成と生き生きとした細部が、紛いようのない彫塑性と緊張感で結びついている。彼は主観を抑え、フルトヴェングラーの呪縛性ともバーンスタインの告白性とも無縁だった。圧倒的な明晰さと一貫性により、彼はどの時代の傑作も、わざとらしさを排して、その現代性を実在のものにしたのだ。
(ナディア・ゲーア)
~E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P205
クレンペラーの音楽は重心低く、内声の充実を図る謹厳実直なものが多い。
特に、ウォルター・レッグとの一連のEMI録音にそのことは著しい。
(かつて朝比奈隆が、クレンペラーの録音を評価し、彼の演奏を常々参考にしていると言っていたが、造形の部分ではかなり近しいものを感じる)
ただし、朝比奈と明らかに違うのは、クレンペラーの場合、普段聴き慣れない旋律やフレーズが浮び上るという、クナッパーツブッシュらに通ずる「遊び」の精神(?)があることだ。
クレンペラーの「英雄」。
そういえば、僕はクレンペラーの「英雄」を一度も採り上げたことがなかったかも、と思い至った。
精悍な第1楽章アレグロ・コン・ブリオは、録音の良さも相まって古典音楽の最高峰だという印象。一方、第2楽章「葬送行進曲」の粘りは、クレンペラーならではの生命力の賜物だ。
第3楽章スケルツォ(アレグロ・ヴィヴァーチェ)に透けて見えるアンニュイさは、おそらく躁鬱病を持病とするクレンペラーの陰性が顔を出したのだろうと思う。(魅力的だが、どこか停滞の雰囲気は良くも悪くもクレンペラーの「英雄」であることを示す)
そして、終楽章アレグロ・モルトの不思議な軽快さ、また解放感!
(こちらは躁の気を醸すクレンペラーの陽性を示す傑作か?!)
ところで、この「大フーガ」がまた素晴らしい。
明朗で明晰、見通しの良い解釈に心が躍る。
ベートーヴェン最晩年の逸品がこれほどまでにわかりやすい表現として表に出るとは!
トスカニーニはもともとチェロ弾きであり、彼の音楽家としてのキャリアはそこからスタートした。指揮者としての颯爽たるデビュー後も彼はしばしばチェロを演奏している。
若いその頃は、一旦リハーサル期間が終わって晩に上演を指揮するだけでよいとなると、しばしばトスカニーニはチェロを借り、オーケストラのヴァイオリニストとヴィオラ奏者を説得して午後一緒に弦楽四重奏曲を演奏した。その年ピサでのそういう集まりで、彼と他の3人の奏者は、トスカニーニが大好きなメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲変ホ長調(恐らく作品44-3(第5番))を始めから終りまで演奏した。それから、彼らはベートーヴェンの弦楽四重奏曲を読み通し始めることに決め、作品18-1(第1番)から開始した。トスカニーニは、この経験を「素晴らしいもの」と述べている。彼が全作曲家で最も偉大だと考えるようになったベートーヴェンに対する真の深い愛好は、その日に始まった。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(上)」(アルファベータブックス)P108
実に素晴らしい原体験だ。
少年の頃、僕はフルトヴェングラーにかぶれていた。
彼のベートーヴェンこそ唯一無二だと勘違いしていた時期もあった。
実に愚かである。
そこから随分の年月を経て、僕はトスカニーニのベートーヴェンの凄さに敬礼した。
もちろんトスカニーニに限らず、稀代の指揮者たちが演奏するベートーヴェンはいずれもが相応の原体験の中から生み出されたものであろうゆえ、悪いものがあるはずがない。あるのは、個々の価値観やセンスによる独断的判断だけだ。
数種ある「英雄」の録音から1949年のカーネギー・ホールでの実況録音を聴いた。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭の2つの和音から度肝を抜かれた。各楽器の切れ味鋭い音は、聴く者の心を捉え、オーケストラの響きそのものが怒れるベートーヴェンを表すようで思わず釘付けになる。音楽の進行と共にトスカニーニは興に乗る。特に、再現部以降の「歌心」により感銘を受ける。
なるほど、巨匠のベートーヴェンには激烈な表現の奥底に常に「歌」があったのだ。それこそトスカニーニの若き日のヴェルディ・オペラの体験こそがその「歌心」の所以であることを理解したのは(お恥ずかしい限り)つい最近のことだ。
ベートーヴェン:
・交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(1949.11.28&12.5Live)
・交響曲第1番ハ長調作品21(1951.12.21Live)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
第2楽章「葬送行進曲」(アダージョ・アッサイ)は、死者をも目覚めさせるような熱気とパワーを秘める。金管群の音圧と咆哮、打楽器群の意味深い強打、そして弦楽器群の優雅な歌に(ここでも感じられるトスカニーニの「歌心」!)、同時に生々しさを感じさせる音の良さに感涙だ。
第3楽章スケルツォは、何よりトリオの落ち着いた安定の響きが聴きどころ。そして、終楽章アレグロ・モルトは類稀なる推進力と「間(ま)」の力、あるいは緩やかなシーンでの夢見るような歌に止めを刺す。最高だ!
久しぶりにヴェルディの「オテロ」を聴いた。
古い録音ながら、凝縮された音楽美の、まるで闘争のような解放と昇華に感激した。
さすがに初演を知るトスカニーニならではの、リアリティに富む再現だ。
ヴェルディはまったく新しい形式をもたらした。それにもかかわらず脈々として波打つイタリア・オペラの伝統的な息吹きは、この作品に接する者の心を完全にとらえずにおかない。構成は一見ワーグナー的であるけれども、示導動機の姿はさして見当たらないし、あくまでイタリア・オペラとしてのスタイルを貫いている。
~「作曲家別名曲解説ライブラリー24 ヴェルディ/プッチーニ」(音楽之友社)P166
初演当時の新聞評は大絶賛の嵐。老巨匠が数年の時間をかけて創出した傑作は、聴けば聴くほど素晴らしい。
ミラノ・スカラ座での世界初演にトスカニーニは、第2チェロ奏者として立ち会っている。
当時は、オペラのオーケストラはシーズンごとに雇われたので、トスカニーニは《オテッロ》の準備を観察しようと決め、スカラ座オーケストラの第2チェロのオーディションを受けて合格した。《オテッロ》に加え、彼は《アイーダ》、ドニゼッティの《ルクレツィア・ボルジア》、ビゼーの《真珠採り》、そして、ギリシャの作曲家、スピリドン・サマラス(イタリアではスーピロ・サマラとして知られる)の《素晴らしい花》の世界初演の制作で演奏した。すべて、ファッチョの指揮だった。
その後終生トスカニーニは、1887年1月から3月にかけての《オテッロ》のリハーサル及び本番上演を彼の最高の学習経験の一つと言っている。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(上)」(アルファベータブックス)P71-72
あらゆる音楽を暗譜で指揮することができたトスカニーニの天才は、具体的な努力はもとより、こういう歴史的モニュメントたる機会を逃さず、体験できたことによるものだろうとつくづく思う。
彼は後に、73歳のヴェルディがどのように舞台に座り、最初のオーケストラ・リハーサルで、オペラを開始する凄まじい総奏の前に最初の4拍を鋭くすばやく数えることによってファッチョにテンポを示したかを述べている。しかし、全プロセスに関してトスカニーニを最も魅了したのは、最初の全体リハーサル—独唱者、合唱団は衣装を着けて彼らの役を歌い演じ、フルオーケストラが演奏—で「我々は第1幕の最後まで止まらずに進んだ。すなわち、彼らはイン カーメラ(部屋で)(ヴェルディとファッチョはピアノ伴奏で歌手たちとリハーサルした)十分に、舞台上で十分に、そしてオーケストラと(十分に)リハーサルをしていた」という事実だった。換言すれば、最大限の徹底が最大限の能率と結び付いていた。彼がオーケストラ団員として、また、二流、三流の歌劇団において—そして、短いリハーサル期間を考えると恐らくトリノでも—指揮者として経験していたことは、行き当たりばったりの方式だった。スカラ座での経験を通じて彼は、オペラ制作に投入される各要素で別々に詳細なリハーサルを行なうことにより、それらの要素すべてが集められた時に時間を節約することを、彼のキャリア開始時点で理解した。
~同上書P72
こういうエピソードを知るにつけ感動を覚える。
そしてまた、リハーサルでの例の有名なエピソードが、トスカニーニのヴェルディ解釈にどれだけの幅をもたらしたことかがわかって興味深い。
或る時、ファッチョが第1幕の愛の二重唱でオーケストラのリハーサルをしている間、それはチェロ奏者4人だけの楽句で始まるのだが、ヴェルディが「第2チェロ奏者!」と叫んだ。トスカニーニの譜面台共奏者が肘で彼を突いて、起立するようにと囁いた。若いチェリストは急いで立ち上がった。そこで、ヴェルディは彼に、「君の弾き方は柔らか過ぎる。次はもっと大きな音で弾きなさい」と言った。その部分は”ピアノ“及び”ピアニッシモ“と表示されているが、ヴェルディは表情豊かな音声を求めた。この出来事はトスカニーニに大きな印象を与え、その結果を肝に銘じた。彼の残された会話では、「ヴェルディは我々に、柔らかく演奏するようにとは決して言わなかった」、「オーケストラは自然に演奏しなければならない」、「(作品の)活力はオーケストラの中にある!」というような言い回しがしばしば繰り返される。そして、彼は音楽家達に、ヴェルディの”ピアノ“表示は、ベートーヴェン、ワーグナー、さらにはモーツァルトの”ピアノ“表示と同じではないと告げるのだった。オーケストラは「歌い」、その音を持続させなければならなかった。
~同上書P72-73
「歌い」そしてその音を「持続させること」、それこそトスカニーニの音楽の真髄だと僕は納得した。
初演時、聴衆が熱狂し、3度のアンコールを要求したという。
最初は、第1幕の「フオーコ・ディ・ジョイヤ(喜びの火)」の合唱。
そして、第3幕の独白の最後で「オ・ジョイヤ!(おお、しめた!)でのハイB-フラット(一点変ロ)。
さらに、第4幕の「柳の歌」の直後の「アヴェ・マリア」である。
これらのシーンは、確かにトスカニーニの指揮で聴くと格別だ。
ちなみに、イギリス版LPから復刻されたオーパス蔵盤の音は衝撃的。
あまりに衝撃で聴きながらエネルギーを消耗するので普段使いはトスカニーニ・ボックスから。
トスカニーニが記憶を飛ばしたということで有名な最後のコンサートの記録。
事実はどうだったのかはわからないが、音源を聴く限りではとても立派な、よもや引退を決意するきっかけになったとは思えない精悍かつウェットな印象を醸す名演奏たちに感銘を受ける。
巨匠が少年の頃、最初に衝撃を受けたのは、歌劇「タンホイザー」序曲だったという。
「私が最初に受けたワーグナーの音楽の印象は、1878~79年に遡る。パルマの四重奏協会のコンサートで、《タンホイザー》序曲を聴いた時だ—私はびっくりした」と、トスカニーニは何年も後に書いている(その演奏が行われた時トスカニーニは11歳だった。65歳のワーグナーは当時、720キロ北のバイロイトにおり、《パルジファル》を創作中だった。「私の教師が序曲のチェロ・パート譜を学校に持って来て、私に様々な楽節を勉強させたが、当時の私には大変難しかった。1884年、パルマは《ローエングリン》のボローニャでの成功、ミラノでの失敗の後、それを最初に上演したイタリアの都市だった。私はオーケストラで演奏した。その時、私はワーグナーの天才の偉大で崇高な啓示を初めて受けた。最初のリハーサルで前奏曲は、最初の小節から魔法のようでこの世のものとも思われない印象を私に与えた—新しい世界を私に示した神々しく美しい和声によって。それは、ワーグナーの超自然的精神が見出すまで誰もその存在を夢にも思わなかった世界だった」。
~ハーヴィー・サックス/神澤俊介訳「トスカニーニ 良心の音楽家(上)」(アルファベータブックス)P48
11歳の時に受けた衝撃が、夢の中に蘇り、その刺激がそのまま音化されたような劇的表現。
とても87歳の老人が棒を振っていると思えない激しさと色気。
今もって大いに価値あるワーグナーだ。
ニューヨークはカーネギー・ホールでのラスト・コンサートの記録。
貴重な、試験的ステレオ録音(賛否両論だが、とにかく美しい!)。
何よりその生々しい響きに感激する。
おそらく聴衆は固唾を飲んで老巨匠の演奏を見守っていただろう。
危ういシーンも散見されるが、しかしそれ以上に崇高さが手に取るように見えるのだから凄い。人間トスカニーニの神業だ。
人の世の闘いに疲れた魂にとっては、港こそ、こよなき休息所である。空の広大無辺、流れゆく雲の建築、移ろいやまぬ海の色、煌めく燈台、それらは、絶えて人の眼を疲らすことなく、ひたすらにそれを慰める不思議なプリズムである。浪あって調和ある動ぎを伝える、複雑な帆網を艤って、すっきりとした船舶の姿は、能く人の魂に、美と韻律への好尚を保たしめる。而してここにわけても、既に好奇心と野心とを喪いつくした者にとって、或は望楼の中に臥しながら、或は防波堤の上に肱つきながら、発ちゆく者還り来る者の、なお希望を抱く力ある者、なお旅をゆきまたは富をなさんと願う者の、これら総ての運動を眺めやることには、一種神秘的にして貴族的なる快楽がある。
「港」
~ボードレール/三好達治訳「巴里の憂鬱」(新潮文庫)P146
巨星がどんどん堕ちて行く。
僕はこの人の熱心な聴き手ではなかった。
どちらかというと端正で優等生的な解釈の音楽に(先入観もあって)興を殺がれ、ほとんど無視し続けていたけれど、久しぶりに最後のコンサートの様子を記録した音盤を聴いて、やっぱり素晴らしい音楽家だったんだと確認し、実演含めもっと真面目に聴いておけば良かったと後悔。色眼鏡はいかぬ。
過去の記事を振り返ってみたところ、何とちょうど10年前の6月17日に「フェアウェル・コンサート」を採り上げていたようで、(我ながら)その偶然に吃驚した。
ウィーンは楽友協会大ホールでの記録。
愉悦のモーツァルトが、何だか悲しんでいるように今日の僕には聴こえた。
(第2楽章アンダンティーノの悲愴感!!)
両端楽章の堂々たる風趣は、ブレンデルのラスト・コンサートに相応しいものだ。
なお、K.271はモーツァルトによって頻繁に演奏されたそうで、複数の自作カデンツァが残されている。中には父レオポルトや姉ナンネル作のものも含まれており、その内容は多彩だ。
ちなみに、モーツァルトは、第1楽章アレグロと第2楽章アンダンティーノのカデンツァ、そして終楽章ロンド(プレスト)の2つのアインガングを含むA, B2つのセットを残しており、独奏者はいずれかを選択できる。モーツァルトはAセットを自分用に保管し、Bセットをヴィクトワール・ジュナミに残したと考えられているようだが、ここでブレンデルは、1777年、モーツァルト自身がザルツブルクで書いたBセットを使用している。
2008年12月、60年間のステージ人生の幕を下ろすことを、私はかなり以前から計画していました。私は、新たな挑戦を楽しみにしながら、最後の公演を静かに待ち望んでいたのです。
予想通り、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートはオーストリア放送局によって録音されました。ハノーヴァーでの最後のリサイタルに関しては、当初はラジオ放送に抵抗がありましたが、急遽許可しました。喜びに溢れる結果がここに集約されていると思います。もしかしたら、私がまだまだ全力を尽くすことができ、洞察力に一層磨きをかけることができるであろう時期にコンサート活動を止めるのは間違いではなかった、ということをこの録音が証明してくれるかもしれません。モーツァルトのソナタK.533/494とK.271の緩徐楽章への私の長年の愛着が、遅ればせながら成果につながるなら嬉しい限りです。
リスナーの皆様に敬意を表し、温かい感謝を込めてお別れを申し上げます。
(アルフレート・ブレンデル)
本人のこの言葉どおり、K.271の素晴らしさ。
モーツァルトの音楽に、そしてブレンデルの演奏に感謝だ。
今宵もカザルスのブラームス。
第2番の方は、ヴァイオリニストがスターンからシゲティに変わっている。
この違いがまた如実に表れていると思う。
どちらかというと晦渋な印象の第2番は、長らく僕がとっつきにくいと感じていた作品だ。
晦渋さに晦渋さを掛けたらば、晦渋でなくなったという印象。
つまり、シゲティの決して美しいとは言い難い音色がブラームスの晦渋さを打ち消すかのような効果をもたらしたということだ。
奏者が一人代わるだけでこんなにも作品の印象が変わるのかと驚くばかり。
カザルスもヘスも、相変わらずの彼らの音を維持しているのだから実に興味深い。
・ブラームス:ピアノ三重奏曲第2番ハ長調作品87(1880-82)
パブロ・カザルス(チェロ)
ヨーゼフ・シゲティ(ヴァイオリン)
デイム・マイラ・ヘス(ピアノ)(1952.6録音)
プラード音楽祭の記録。
交響曲第3番やピアノ協奏曲第2番が書かれていた、ブラームスの創作力が最も充実していた時期に(幾度もの中断をはさみ)生み出された傑作三重奏曲を、稀代の名手たちが協調的に紡ぐ(平和への)祈りの名演奏。
若い頃は、「晦渋」として理解が困難だった音楽が、年齢を重ねてか心に沁みる。
カザルスが言うように、すべての音楽は「祈りのように人を高める」。
僕が18年もの間、ほぼ間断なくブログ記事を書き続けるのも(僭越ながら)同じような思いからだ。
私がいなくなっても、プラード音楽祭はつづけなければならない。私がはじめたこの活動は、存続しなければならない。音楽は祈りのように人を高め、人びとを結びつける。この活動を終わらせてはならない。私のまわりにいた人びと、これからやってくる人びとが、つづけなければならない。
(パブロ・カザルス、1962)
~ジャン=ジャック・ブデュ著/細田晴子監修/遠藤ゆかり訳「パブロ・カザルス―奇跡の旋律」(創元社)P94
まさに天命のようなカザルスの活動(プラード・パブロ・カザルス音楽祭)は、60年以上経過した今も続いている。
善に傾く頑なさも争いの種だということに僕たちは気づかねばならない。
落としどころはどこか、常にそんなことを考えることはないが、駆け引きなく無心で事を推し進めることが大切だ。
良心から発露されたカザルスの音。
数多の音楽家の心を動かしたびくともしない信念こそ、行動する人パブロ・カザルスの真髄であり、その再現こそ彼の生きる意味だった。
プラード音楽祭の始まり、そのエピソードが面白い。
カザルスは、この音楽祭を内輪の祭りにすることに決めた。参加者は自分の利益を求めず、各人が音楽評論家に宣伝することも禁じられた。リハーサルの数ヵ月前に、地元と外国の新聞が、音楽祭の小さな記事を載せた。しかしすでに人びとは、これが「音楽会の大事件」であることを知っていた。
~ジャン=ジャック・ブデュ著/細田晴子監修/遠藤ゆかり訳「パブロ・カザルス―奇跡の旋律」(創元社)P77
パブロ・カザルスを知る人にとっては大事件だったに違いない。
しかし、寒村プラードの住民の多くにとっては世界中から押し寄せる人波で恐怖でしかなかったらしい(何せホテルの部屋数は30しかなかったというのだから)。
当初、この音楽祭は、プラードの住民にはあまり理解されていなかった。彼らはただ、着飾った「外国人」(当時、コンサートの聴衆は夜会服を着るしきたりがあった)が自分たちの町に殺到したことに驚き、おびえていた。カザルスは祖国を追われた自分をむかえ入れてくれたこの町の人びとに敬意を示すため、すべてのコンサートの最後に教会前の広場で演奏し、6月11日はプラードの住民をコンサートに招き、終了後には立食パーティーを開いた。
~同上書P80-81
バッハを記念してスタートした音楽祭も回数を重ねるにつれ大きく広がっていった(バッハ音楽祭からパブロ・カザルス音楽祭へ)。
・ブラームス:ピアノ三重奏曲第1番変ロ長調作品8(1854)
アイザック・スターン(ヴァイオリン)
パブロ・カザルス(チェロ)
デイム・マイラ・ヘス(ピアノ)(1952.6.30&7.1録音)
滋味深きヨハネス・ブラームス。
当時21歳の若者の作曲とは思えない老練の筆。天才を発見したロベルト・シューマンもさぞかし吃驚したことだろう。
ヘスのピアノを土台にカザルスのチェロに若きスターンのヴァイオリンが丁々発止で挑む。
ヘスはあくまで中庸に、淡々とブラームスの意味を説こうとする。
色気を出すのはスターンであり、一方、スターンの挑戦をがっぶり四つで受け止め、カザルスはブラームスの心情を心を込めて歌う。
何よりプラードに集まってくれた公衆に向けての、平和をアピールするカザルス。
その後の、カザルスの祈りが世界を巻き込んでいく、その様子に言葉を失う。
音楽祭はつねに大きな反響をよび、フランス大統領ヴァンサン・オリオールやベルギーのエリザベート王妃といった人びとまでもがやってくるようになった。
しかしその裏では、運営や資金調達にまつわるさまざまな問題が生じていた。参加する音楽家たちが費用を負担するようになっていたが、彼らは「われわれは幸運だ。金はかかるが、どれほどのことを学んでいるかわからないのだから」といっている。事実、カザルスのもとで演奏することは、値段がつけられないほどの価値があった。
~同上書P85-86
1952年12月7日から9日にかけてティタニア・パラストで行われたベルリン・フィルの定期演奏会。そのうち「エロイカ」については7日と8日の録音が残されている。
僕の記憶だと明らかに8日の演奏に分があるように思っていたのだが、40年近くぶりに日本フルトヴェングラー協会が頒布した12月7日演奏のレコードを聴いて、その素晴らしさにのけ反った。放送局蔵出し音源の素晴らしさなのか音質も生々しく、病み上がりのフルトヴェングラーの音楽解釈がますます深まっていることと、オーケストラをドライヴする技術が一層飛躍していると感じられる名演奏で、直前の(造形がほぼ相似形の)ウィーン・フィルとのセッション録音を凌駕する力とエネルギーに漲っている点に思わず惹き込まれてしまった。
カルラ・ヘッカーは書いている。
1931年3月にヴィルヘルム・フルトヴェングラーが、一人の演奏会への出席者から、ベートーヴェンの作品の代りにむしろ他の作曲家の作品をプログラムに入れるよう—なぜならベートーヴェンの交響曲は、すでに「あまりに頻繁に」演奏されてしまっているからである—要請されたとき、彼は次のように答えたのであった。
「わたしは、ベートーヴェンが頻繁に演奏され過ぎるという意見はもっておりません。そうではなく余りに悪しく演奏され過ぎている、と考えるのです。さらにいえばわたしは躊躇なくこう言いたいのです。すなわち逆説的にきこえるかもしれませんが、ベートーヴェンはもっとも知られざる巨匠の一人であると私には思えるのです。」
カルラ・ヘッカー(高橋順一訳)
~FWJ-1ライナーノーツ
フルトヴェングラーがベートーヴェンを演奏する理由である。
そしてまた、彼のベートーヴェンが時空を超え、愛好家から求められる理由でもあろう。
巨匠のベートーヴェンには、現代の人々が失った何かがある。
あまりに普遍的な永遠不滅の何かが間違いなくある。
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」(FWJ-1)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1952.12.7Live)
※自由ベルリン放送実況収録
ライヴならではの生命力。そして、老練の、まるでスタジオでの造形力をなぞるような緊密な構成と集中力。テンポの動きなどは明らかにセッション録音より凄まじく、しかもそれが度を越しておらず、極めて自然体の音像が眼前に聳えるのである。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオに関し、フルトヴェングラーの方法が最適だといつも思うのだが、この日の演奏は会心の出来だっただろう、音が四方八方に広がり、音圧は高く、まるでその日その場で聴いているような錯覚に襲われるほど感動的。
しかし、それ以上なのは第2楽章「葬送行進曲」。個人的にはフルトヴェングラーのベスト演奏だと思う。
ここではただフルトヴェングラーの「英雄」の解釈の性格的な特徴に言及するだけでよかろう。すなわちフルトヴェングラーが、どのように休止を、つまり全体のうちで黙している部分部分を生命力を以て満たしたかを、そして音楽の流れが、いわば休止を貫いて、分割しえない何ものかとして—最初の一拍から最後の一拍まで生きているものとして—流れていったかを、である。緩徐楽章である「葬送行進曲」において、こうした休止の意味が、ほとんど胸をしめつけるような在り方で以て明瞭なものとなる。わけても、この楽章の最後の何拍か、主題が響きやみ、くだけ散り、沈黙へ帰ってゆくところで、である。そのときの人は、悲劇が、最も偉大な悲嘆が沈黙のうちにあることを、それこそが深い苦悩の範型であることを悟るのである。
カルラ・ヘッカー(高橋順一訳)
~同上ライナーノーツ
沈黙という音楽の在り方を確かにここまで感じさせてくれる演奏は、数多のフルトヴェングラーの録音の中でも他に類を見ない。この楽章の成功から、おそらく気を良くしたフルトヴェングラーは興に乗り、第3楽章スケルツォ(アレグロ・ヴィヴァーチェ)を喜びの中で指揮し、そして終楽章アレグロ・モルトを、命がけの再現で堂々と駆け抜けたのである。
ちなみに、この日のプログラムは以下のとおり。
・ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲
・ヒンデミット:交響曲「世界の調和」
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
おそらくラジオ放送があったのだろう、数日後、ヒンデミットに宛てたフルトヴェングラーの手紙が残されている。
ベルリンでいたしました貴殿の『世界の調和』の演奏、電報でお知らせいたしましたが、お聴きになれましたでしょうか。もしお聴きいただけたのでしたら、演奏には満足していただけたと存じます。この作品は、長く取り組めば取り組むほど、楽員にも、また別して私自身にも、それだけ大きな歓びを与えてくれるのでした。長い曲ですから聴衆には大変かも知れませんが、貴殿のこれまでの管弦楽曲中、最高傑作ではないでしょうか。当地でも明らかに成功でした。
(1952年12月11日付、パウル・ヒンデミット宛)
~フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P270
定期演奏会での充実ぶりが手紙からもうかがえる。