《レオノーレ》初演は1805年11月22日のことであった。
初演の反響は以下のとおりだ。
フランス人たちのヴィーン侵入はヴィーン人たちにとって初めの内はまるで慣れることのできないもので、何週間かまったく異常な静けさであった。宮廷、宮廷の各部署、主な大土地所有者たちは立ち去っていた。ふだんだったら馬車の絶え間ない騒音が通りを押しのけているところ、一台の車がこっそりと通るのも滅多に聞かれない。・・・劇場も初めの内はまったく空っぽで、だんだんようやくフランス人たちが舞台を訪れ始め、そして現在も観客の大多数を形成しているのは彼らである。最近は重要な新作はほとんど上演されなかった。新しいベートーヴェンのオペラ《フィデリオ、または夫婦の愛》は好まれなかった。それは何回かしか上演されず、第1回の上演後はまったく空っぽであった。音楽も実に期待はずれで、玄人も愛好家も当然にそう思った。
(1805年12月26日付「フライミューティゲ」紙)
この記事を参考にすると、(ナポレオン軍の)占領が始まった直後に上演を予定通りに強行という判断の悪さが決定的である。上演許可申請がいったん却下されたことで順延となり、予定日が占領直後にずれ込んだという運の悪さ。入りは最悪で、観客もドイツ語を解さないフランス将校たちであった。
~大崎滋生著「史料で読み解くベートーヴェン」(春秋社)P244
現代の視点から見ると、それこそ天意が働いていて、失敗があったがゆえに「レオノーレ」改訂稿が生み出され、また最終的に「フィデリオ」が成立したわけだから悪運というより幸運だったのではないか、そんな風に僕は思う。
(ベートーヴェンは楽聖なのだから)
ベートーヴェンの、みまごうことのない才能のこれまでの軌跡を注意深く冷静に見てきた者は、この作品にはまったく違うものを見ざるを得なかった。
(1806年1月8日付、ライプツィヒの『総合音楽新聞』)
そして作品に対する酷評が延々と続く。ベートーヴェンは早々に、改訂に乗り出した。
~同上書P245
時代が早過ぎたのだろうと個人的には思う。
改訂稿の上演は1806年3月29日土曜日、アン・デア・ヴィーン劇場においてであった。
「第2稿は・・・好意的に受け入れられた。にも拘わらず舞台に載せることは第2回の後、ベートーヴェンが支配人とのいさかいによりスコアを引っ込めた」。
~同上書P246
その後、戦禍が激しくなるにつれ、劇場も立ち行かなくなり、いよいよオペラ公演が不可能になっていく中で、「レオノーレ」を再び舞台に載せることはあり得ず、再演はナポレオン戦争が終結する以外になくなった。
ちなみに、「フィデリオ」が上演され、大成功を収めるまでの間に、プラハで「レオノーレ」の上演計画が持ち上がったらしい。(何らかの事情で中止になったのだが)
彼はそのために新しい序曲(レオノーレ序曲第1番)を作曲したと思われ、1807年代の年代記入のある校閲筆写譜が遺されている。それは死後、遺品の中に発見された。
~同上書P248
レオノーレ」序曲第1番は実に素晴らしい曲だと思う。
特にこのクラウスで聴くそれは優雅で喜びに満ちる、まさに「夫婦の愛」を表現するに相応しい名曲だ。
ベートーヴェンは4連続コンサートの終了を待たず、宮廷劇場詩人トライチュケに台本の改訂を依頼し、再改訂に乗り出した。そして《レオノーレ》は《フィデリオ》となって、1814年5月23日にケルンテン門劇場で初演を迎える。2日目の26日の上演から、舞台はもうひとつの宮廷劇場であるブルク劇場に移された。
《フィデリオ》はその後、翌年末まで32回の公演を重ねていく。9月末から開催されているヴィーン会議期間中には、各国の王侯貴族が観劇する機会も設けられた。その結果、ベートーヴェンのオペラ作曲家としての名声は全ヨーロッパ的に高まる。
~同上書P255
歴史を振り返るに、「レオノーレ/フィデリオ」の不遇は、様々な要因が絡んでの外的要因、そして、大衆に受容されるだけの内容の解りやすさが不足していたことなどが見事に重なったことによることがわかる。
ベートーヴェンの音楽は「未来音楽」だった。
それゆえに、今となっては「フィデリオ」よりも「レオノーレ」の素晴らしさが実感できる。
クレメンス・クラウスの最後の録音は、1954年3月、デッカへのベートーヴェン唯一の(大幅に改定された)オペラのための4つの序曲だった。当時彼は心臓病と診断されており、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートでは、緊急時に備え、医師が舞台に同席していた。1月下旬にはロイヤル・オペラに最後の出演を果たし、タイムズ紙の評論家がクラウスの指揮を、「オーケストラには決して無理をさせず、冒頭から軽やかさを保ち、同時に余分な強調を避け、オペラに独自の勢いをもたらした」というような、今日でも通用する表現で褒め称えている。
ちなみに、最後のメキシコ公演を締めくくる「レオノーレ」序曲第3番の演奏には、そのような控えめさなく、幸いなことに、荒々しさと激しさがあったという。
(ピーター・クァントリル)
「フィデリオ」「レオノーレ」にまつわる4つの序曲の名盤には、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団のものがあるが、今の僕はむしろクラウスのこの典雅な響きの、それでいて実に客観的かつ美しい音色を保つ最後のデッカ録音を好む。
ウィーンは楽友協会大ホールでのセッション録音。
発展よりも世間に迎合し、退化する「レオノーレ」あるいは「フィデリオ」。
序曲も第3番よりむしろ大胆さと粗削りな印象を醸す(この方がむしろ自然に近く、第3番はある意味人工的だ)第2番の方が、いかにも尖鋭的な、革新的なベートーヴェンの本懐であり、クラウスの演奏も第2番が秀でている。
最愛の姉さん!
ぼくたちの最愛の父の急逝の知らせが、ぼくにとってどんなに悲しいものだったか、容易にお察しいただけるでしょう—この喪失は、姉さんにもぼくにも、同じものなのですから。今のところヴィーンを去ることは(それはむしろ姉さんを抱擁する喜びのためにしたいことですが)とてもできませんし、お父さんの遺産については骨を折るほどのこともないでしょうから、正直のところ、競売に付するということで、姉さんとまったく同意見です。
(1787年6月2日付、モーツァルトから姉宛)
~柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)P127
今日はまる一日頭を使った。
心地よい疲れを伴うが、そんな夜には極めて軽い音楽を欲するのは当然のこと。
モーツァルト「リトル・ライト・ミュージック」なるアルバムが手もとにある。その劈頭を飾る作品は、晩年の「音楽の冗談」K.522だ。
音楽は実に軽快だが、作曲の背景にあるものは意外に重い。
思考や感情と。そこから生み出された音楽の乖離。それこそヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだ。
さらに考えさせられるのは、この痛烈なパロディ作品が、父の死の直後に書かれたという事実である。モーツァルトの父レオポルトは、1787年5月28日に亡くなった。この作品が完成したのは、それからわずか2週間後のことである。レオポルトの死の以前からモーツァルトが作品に手を付けていたことは、使用された五線譜のすかし模様の研究からも確かめられている。しかし、モーツァルトがこの作品を完成させた日付は揺るぎもなく6月14日なのであるが、モーツァルトが父の死をきっかけにこの作品の仕上げに取り組み、短期間で完成させたと推測することは許されよう。
(永田美穂)
~UCCG-90635ライナーノーツ
なんにせよ経済的困窮に陥っていた彼がやらなければならなかったことは、パンのための仕事であっただろう。件のダンス音楽など、その最たる例。
モーツァルトという「幻想」を横に置き、彼がいつどんな状況で書いたかという事実も無視し、ただただ音楽に浸ろうではないか。
指揮者のいない室内オーケストラの、恣意のないモーツァルトは、個性を封印する。
だから面白くないと思う人もあろう。
もちろんこれはある種のバック・グラウンド・ミュージックだ。
邪魔にならない、「我(が)」のないモーツァルトが、疲れた脳みそにとても相応しい。
僕は幸せだ。
否、岡本太郎的にいうならば「歓喜」だ。
「ショスタコーヴィチの真実」という意味合い・文脈で、当時評価された交響曲全集。
半世紀近くを経て、それが良し悪し、あるいは正否を超えて作曲家の真の姿をとらえるものだという印象を一層強くする。
ヴォルコフの「証言」以降、ショスタコーヴィチを取り巻く世界はがらりと変化する。
ソ連の演奏家が、ショスタコーヴィチのことを、体制を礼賛する作曲家だと考えていたとしたら、その演奏は、誤解に基づく的外れな演奏なのではないかというわけだ。そこで注目されたのが、当時進行中だったハイティンクの全集だ。ソ連の演奏が信じられなくなった当時の人々が求めた、嘘のないショスタコーヴィチ演奏として、ハイティンクはうってつけだった。ハイティンクは、これはこういう曲だろうという先入観で表情付けをすることが少ない。そういった懐疑的な姿勢こそが、ショスタコーヴィチの音楽の真の姿を明らかにするものだと思われたのだ。
(増田良介)
偶々、今日教えていただいた以下の言葉が心に刺さる。
本心は見聞・知覚に属さないけれども、又見聞・知覚から離れない。又見聞・知覚に因って見解を起してはならない。又、見聞・知覚に因って念を動かしてはならない。又、見聞・知覚を借りて真のものを効うということから離れてはならない」即かず、離れず、執らわれず、又煩わされずして、自由自在・縦横無尽なれば、すべてが道場となるのである。
偏見は人の常。
知識や常識かを手放すことがいかに大事か。要は、自分の分別に縛られないことだ。日常生活を送りながらいつもそんなことを僕は思う。
レニングラード音楽院の卒業制作として書き上げられた交響曲第1番は、革命世代によって書かれたソヴィエト時代最初の本格的な交響曲である。そこにもむろん、伝統の継承か切断か、の問題が影を落とし、最先端を行こうとするものにありがちなシニカルな驕りと、伝統に対するおもねりや右顧左眄が絶妙なかたちで融合していた。フェイによれば、この交響曲の第3楽章を書き終えた段階で、一時期、彼は自暴自棄になり、自分の作品がお蔵入りするのではないかとの不安に陥った。若い作曲家をそうした不安へと追いやったもののもう一つ別の正体とは、状況の不透明さそのものである。革命政権が求める音楽がどのようなものか、まったく見通すことができなかった。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P42
ソヴィエト社会がいずれにせよ限定された、不自由な体制であったことがショスタコーヴィチのこういう状態からも読み取れる。そんな中で、不安と闘いながらも創造された交響曲の素晴らしさ。
1926年5月12日、ニコライ・マリコ指揮によるレニングラードでの初演は大成功を収め、第2楽章がアンコール演奏されるというおまけまでついた。その後、ブルーノ・ワルターによってベルリン初演がなされ、ショスタコーヴィチの名声は瞬くまに世界に広がった。
~同上書P49
ワルター自身もこの作品に衝撃を受けたことを回想しているが、それほどにショスタコーヴィチの第1作の革新は、とても学生の卒業制作とは思えないものだ。
ハイティンクのすごさを確信したのは、僕の場合、どちらかというと第2交響曲ロ長調を繰り返し聴いてだ。
この、いかにも体制に迎合した交響曲が、(歌詞の内容は横に置くとして)いかに中庸に、いかに先入観なく、そして聴き手にそれを求める姿勢もなく、再現されたものであるか。
ショスタコーヴィチにとって十月革命は当然のことながら、レーニンの名と固く結びついていた。すでに述べたとおり、交響曲第1番の第3楽章「レント」や最終楽章に、レーニン追悼の意思を込めていたが、この第2番を作曲する中でも、おそらくは何度か、2年前の春、レーニン廟を訪ねたときの記憶が蘇ってきたことだろう。1925年3月、モスクワ音楽院での自作演奏会のためにモスクワ入りした彼は、その前日、降りしきる雨のなか、赤の広場へと足を運んでいる。果して彼はその時、霊廟の建設とレーニンの遺体保存に尽力した人物の一人(当時の外国貿易人民委員レオニード・クラーシン)が、かつてシベリアの都イルクーツクで少年時代を送り、自分の祖父ボレスラフとも親しい間柄であったことを知っていただろうか。ショスタコーヴィチは、その日、赤の広場の長い列に立ち、雨にぬれて黒々と光る木造の廟内に入り、地価の安置室に降り立った。
~同上書P54
亀山さんのこの描写が真実なのかどうか、僕は知らない。
どれほどの脚色があるのかもわからない。
何にせよ、他人の心の内側まではまったく読めないというのが分断された人間の有様ゆえ、ショスタコーヴィチの本音は今となっては誰にもわからない。
ただし、年月の経過とともに名作は一人歩きするもの。
おそらくこの曲も、1世紀以上を経た今ついに、間違いなく「体制迎合的でない」ハイティンクの解釈こそが持て囃される、真に愛される時期が来ているのではなかろうか。
ショスタコーヴィチは、交響曲第2番の出来ばえにかなりの自信を持っていた。
~同上書P61
本人には自負があり、また計算があったのだと亀山さんは指摘する。
(それが間違いなかろう)
そして、こんなエピソードも披露してくれているのだ。
ソヴィエト楽壇の重鎮として知られたミャスコフスキーはため息まじりにこう表現している。
「コンサートでこの曲を聴くと、ただ圧倒されるのです。どの箇所をとっても力強く、・・・全体としてきわめて簡潔でありながら、ひじょうに興味深い方法で完璧に計算しつくされている。彼は鼻持ちならない若者ですが、本当に偉大な才能の持ち主です」
~同上書P63-64
個人的には、実演で聴いてみたい交響曲のひとつだ。
おそらく実演に触れない限りこの交響曲の真意はつかめまい。
今や、一人歩きしたレーニン讃美の革命交響曲がどう表現され、僕たちの心にどのように響くのか、実に興味深いところだ。
私は録音を発売するときにはいつもぞっとする気持ちに襲われます。この日のバイエルン州立オーケストラは実に快活かつ大胆で、魂のこもった演奏をしてくれたので、私はまったく満足してリリースする気になりました。
(カルロス・クライバー)
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」(音楽之友社)P152
三たび、カルロス・クライバーのベートーヴェンは交響曲第4番変ロ長調作品60。
繰り返し聴けば聴くほど味わい深くなる超名演奏。
吉田秀和さんを感嘆させた、おそらく唯一無二と言っても良い理想的ベートーヴェン。
発売された当初、吉田さんは「複数の批評家が採り上げるだろうから何も私があえて書くこともなかろうと思いつつ、こんな素晴らしいレコードが出たのに書くのを遠慮すると、必ず後から後悔するだろう」という前提を付し、「レコード芸術」誌に次のように書いておられた。
この演奏をきいて、まっさきに頭に浮かんだのは、指揮者のいかにも「格式の正しい、偉大な古典の音楽を演奏するのにふさわしい、態度、心構え」ということである。初めから終わりまで、均整がとれた堂々たる音楽の歩み、足の運びの立派さで一貫して押し通している演奏である一方で、少しも、堅苦しくならず、むしろ、どこをとっても自発性にとんだ動きのなかに、気迫の充実が感じられるのである。
このレコードの『第4交響曲』が、いかにも格調の高い古典性にうらづけられた名作の面影を保っている一方で、ちっとも、すでに何十回、何百回とききなれた古い曲という感じを与えず、いかにも生気溌剌たる清新な音楽としてきこえてくるのである。
これを「名演奏」と呼ばなくて、ほかの何を呼んだらいいのだろう。
~「吉田秀和全集14 ディスクの楽しみ」(白水社)P225
確か僕はこのエッセイを読む前にレコードを仕入れて、すでに聴いていたと記憶する。
もはや吉田さんの的確な言葉に感動しつつ、僕はカルロス・クライバーの天才をここで初めて知ったのであった。
これは、前年の夏に亡くなったカール・ベームを記念してのコンサートの記録だが、本人もよほど納得する出来だったのだろう、カルロス・クライバーが手放しでリリースを認めた代物という点が珍しい。
ベームは死ぬ前にクライバーのことを賞賛していた、彼は次世代の最も優れた指揮者だと公言していた。しかしそのベームでさえ、クライバーを指揮台に引っ張り出すことはできなかった。
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」(音楽之友社)P146-147
もちろんカルロスもベームのことは尊敬していた。
そういう二人の関係が織り成す奇蹟の瞬間を体感できるのがこのコンサートだったのだ。
クライバーは1982年2月に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのある演奏会に飛び入りで演奏したし、またミュンヘンではカール・ベームに恭順の意を表し、ベームが振る予定だった1982年5月3日の演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第4番、第7番を指揮した。彼はこの演奏会をカール・ベームの記念に捧げた。クライバーの心酔者たちは恍惚となり、演奏が終ると果てしないオヴェーションを捧げた。「ミュンヒナー・メルクール」紙は熱狂してこう書いた。クライバーは不当にも低く評価されがちなベートーヴェンの第4番を「威風堂々とした偉大さ」で輝かせ、第7番で「活気に満ちたリズムの饗宴、華麗な響きの放射」を繰り広げ、また「渾身の力を振り絞る全力投球」で聴衆を魅了した。
~同上書P151-152
「不当にも低く評価されがちな」という形容詞が聞き捨てならないが、そういう認識の中にあったミュンヘン界隈にあって、大変な熱狂を生み出したのだということは間違いない。
誰が触れても、本当に熱い、それでいて均整の取れた、抜群の造形。
・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調作品60
カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管弦楽団(1982.5.3Live)
ミュンヘン国立劇場でのライヴ録音。
いつもながらの快速スピードが何と心地良いことか。
全体最適、そして部分最適、おそらく当日のバイエルン国立管弦楽団のメンバーは緊張の中にも心の余裕を醸し、閃光眩いカルロスの棒についていったのだろう(そこにはカール・ベームの存在意義も大きいのかもしれない)。
そして、もう一つ、カルロス・クライバーが好きな(?)チャリティー・コンサートであったという事実がすべてに幸運をもたらしたのだ。
クライバーが演奏会の一部をレコード化するという前向きな決心をしたことには、慈善事業が絡んでいて、収入の一部をプリンツレゲンテン劇場の再開に役立てるという意図もあったからだ。ここは1950年代の初期に彼の父エーリヒ・クライバーが指揮をして歓呼を受けた劇場だった。
~同上書P152
第1楽章アダージョーアレグロ・ヴィヴァーチェ(0:00)
第2楽章アダージョ(09:31)
第3楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ(19:00)
第4楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ(24:30)
ところで、先の吉田さんのエッセイでの、最後の締めくくりがまた素晴らしい。
そう、大切なことを一つ書き落した。先日、私はかつてロッテ・レーマンの歌ったドイツ歌曲のレコードを新しく入れ直したものをきいて、いろんな点で感慨深いものを覚えたのだが、そのなかで一つ。彼女のすばらしく明瞭なドイツ語の発音のすばらしいこととともに、そこに何ともいえない勢いが良くて、弾みがあって、活力にみなぎっているのに気づいた。こういう力強さというものは、かつてドイツ人のしゃべり方や身ぶり、いや、それ以上に彼らの「心情」の豪気さ、いや雄勁さとでもいったものに、一般的に、みられたものらしく、今でも少し年の多いドイツ人に会うと、彼らのしゃべるドイツ語の力強さ、元気の良さにびっくりすることが少なくない。日本にいても、ドイツ人の歌の先生、たとえばリア・フォン・ヘッサートとかネトケ・レーヴェといった女性に会った経験のある人なら、私のいうところをわかってくれるだろう。あの人たちは、何ごとにつけて、元気よく、活発に、堂々力いっぱい、しゃべったものだ。このしゃべりの生まれる基本と同じところから、彼らの歌の歌い方、ドイツ語の発声やイントネーションも、生まれてきたわけだろう。それが、現代では、ドイツ人のしゃべり方も変り、それと同時に、ドイツ歌曲の歌唱法にも、ほとんど面目を一変したといってもいいくらいのちがい方が出てきた。それに、ドイツ歌曲といっても、現代はドイツ生まれのドイツ人の歌手だけでなく、世界中から名歌手が出てきている有様である。だが、そういうなかで、ロッテ・レーマンの古いレコードなどをきくと、ハッとする。その力強さ、豪気さ、生命力のあふれるような活発な発動、といったものに通じる何かが、このクライバーの演奏にもあって、私はびっくりした。かつてのそれと、同じではなく、もっと洗練され、知的になったものだが、しかし、同根のダイナミズムがあって、それが、ベートーヴェンのこの雄渾のうちに優しさの一端をもつ傑作の名演奏を支えているのである。
~「吉田秀和全集14 ディスクの楽しみ」(白水社)P229-230
カルロス・クライバーの第4番が、現代では失われた、古き良きドイツ人の持つ豪気さ、力強さ、そこにさらなる生命力を付加した類い稀なるダイナミズムの極致たる演奏であり、この曲の「雄渾さの内に秘める優しさ」を体現しているという言葉に僕は膝を打つ。
中庸とは、善にも悪にも傾かない至善の状態をいう。(凡人には至難の業)
言い換えれば、それは絶対的な調和ということだ。
宇宙開闢以来、時と共に人々の心は乱れ、調和を失っていった。
本来、信仰というものは、人間ならば誰の心にも明らかに存在したものだが、言葉の発見と進歩(後退?)のおかげで利便性は上がったものの、それは失われていった。
聖書をよすがにして、あるいは仏典をよすがにし、世の人は世界の平和を、自身の安泰を祈ったものだ。しかし、言葉である以上そこには限界があった。言葉の認識の違いがぶつかりを生み、争いが頻発するようになったのだ。
言葉で平和の実現が無理ならば、ということで音楽が登場した(のかも知れぬ)。
聖なる音楽は、教会では聖歌として、あるいはミサ曲として表現され、俗界においては舞踊として表現された。
トマス・タリスは、イギリス王室礼拝堂付侍従としてヘンリー8世からエリザベス1世まで仕え、オルガニストも務めた人だ。イギリスの宗教改革期にあって、カトリックと国教会の両様の典礼音楽を作曲することになった彼の心の内はいかほどだったか。
真の信仰者に宗派は関係なかろう。そこには信仰あるのみゆえ。
(ウィリアム・バードはタリスの高弟だ)
「安息日が終わりしとき」、「使徒たちは口々に」、「名誉、徳、権力」は、1558年のローマ・カトリック典礼の終焉以前に作曲されたと思われますが、伝統的な形式に影響を与えた新しい作曲の方法を示しています。
「預言者エレミアの哀歌」は、2つのセクションが異なる旋法で書かれていることから、おそらく別々の作品であると思われますが、トマス・タリスの作品として、そしてチューダー朝の音楽全体において非常に高い位置を占めています。聖週間の最後の3日間の早課で歌われる聖歌は、16世紀にはイギリスと大陸の作曲家によってしばしば作曲されました。タリスは最初の2つの成果を聖木曜日に作曲し、慣習に則り、告知、詩節を区切るヘブライ文字、また聖務日課の一部として聖書のテキストと共に歌われる「レルサレム、レルサレム」というリフレインも作曲しました。タリスによる暗鬱な言葉の、強烈で深い哀感を漂わせる作曲は、チューダー朝初期の音楽の表現力豊かなスタイルの成功例の一つです。
20世紀半ばの表現様式の特長である、音節の使い方、旋律の歌わせ方を控えめにすること、対位法の展開方法、そして集中力を持続させることはむしろプラスの効果をもたらしているように思います。さらに、過分な感傷性が抑制されている分、音楽は一層力強いものに昇華されているのです。
ちなみに、オルガン曲「すでに陽は昇り」と「父よ、われを明らかにしたまえ」は、マリナー・ブック(1550年から1575年頃の写本集で、典礼用のオルガン音楽と声楽及び器楽作品を鍵盤用に編曲されたものが収められています)からのもので、「幻想曲」はオックスフォード大学クライスト・チャーチにある2つの写本に収録されています。
(フィリップ・ブレット)
過剰な感情を抑制することは、聖なる音楽を表現する上で必須だ。
「預言者エレミアの哀歌」の録音は、僕が1歳の頃のときのものだ。
特に、1960年代の録音に僕は感応する。
60年も前の録音が色褪せないのは、そこに人間的感情が極限的に排除されているからだろう。「テ・デウム」にもオルガン編曲の諸曲にも崇高な祈りがあり、言葉にならない幸福感がある。
死は恐れるものではない。そもそも生が死と一体であることを忘れてはならない。
輪廻のなかで生まれ変わりを繰り返してきた僕たちには真の故郷に還るためのパスポートがつに発行されるのだ。すべては喜びの中にある。
エーリヒが急逝したのは、カルロスが25歳の時だった。
生涯、父親に頭が上がることのなかったカルロスの異常なナーヴァスさは、厳しい教育の影響が大きいのだろうが、もはや心身症と思えるほど。特に晩年、カルロスはその気がないのに、皆の注意を引くためか(もちろん本人にそのつもりはない)、いかにも指揮台に立つ可能性をにおわすことが多々あった。
今や指揮台に立つ気力を失くしている彼を、舞台に引っ張り出そうとする周囲の涙ぐましい努力が何だかとても空しい。
2000年頃のエピソード。
わたしはとっさにシューベルトの最後の交響曲「グレート」を提案した。彼はその曲を充分勉強していて録音したいと思っているので考慮に値すると言った。ではどこのオーケストラを使うかという問題に入った。ウィーンはどうかという提案に彼は反対も同然という態度だった。彼は言った、『ウィーンでは万事がぎくしゃくしてしまう。そこにはもう足を向けたくない。いろんなことがあり過ぎた』。バイエルン放送響楽団はどうか。彼が言うには、『演奏会をやるには良いが、録音はだめ』。彼の関心を引いたのはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団だった。彼はラジオを熱心に聴いて、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会の出来具合を批評するはがきを頻繁に送ってきた。彼は言った、『ベルリンへ行くなら、録音会場にはだれも入れない、プロジェクトのことは最後の瞬間まで秘密厳守だ』」。エングストレームはクライバーに可能な限りの便宜をはかると申し出た。数か月後にクライバーは真剣に考えてみたいと返事してきた。
こうして二人は再度グリューンヴァルトのレストラン「フォルストハウス・ヴェルンブルン」で話合いをした。エングストレームはそのときのことをはっきり覚えている、「彼はシューベルトのこの交響曲の録音を、とくに自分の父とフルトヴェングラーのを聴いたと言った。そしてこう説明した、『これ以上どうしてもうまくやれない』。わたしは彼を説得しようとしてこう言った、カルロス・クライバーの演奏はまったく別のもので、もちろん録音技術はずっと良いものになると。しかし無駄に終った」。
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 下」(音楽之友社)P400-401
しかしながら、確かにそのときは、嘘偽りなく、自分の気持ちに正直に話すのがカルロスの常だったのだろうとも思う。子どものように純真で、自分の感情を誤魔化すことなど彼にはできなかった。父の、そしてフルトヴェングラーの録音を聴いて、彼は怖気づいてしまったのだ。
オーケストラとは最初からとてもうまくいった。シューベルトの交響曲第8番ハ長調のリハーサルの最後で彼が即興で短いスピーチをした時、テープレコーダーがたまたま回ったままになっていた。彼は次のように話した。
「さて、明日このように演奏すれば、大変美しくなるだろう。そしてもしこのように演奏しなかったとしても、それでもやはり美しいだろう。諸君の忍耐力と注意力に感謝する。諸君は若いオーケストラだが、立派な広い道が目の前に続いているのだ、諸君さえそこを歩き続けているなら! それは簡単なこととは限らない。仕事では多くのことが求められるだろう・・・しかしあなた方は音楽を演奏したいのであって、それが素晴らしいことなのだ。
あと一言だけ聞いてほしい—技術的なことだ。恐れないで! リハーサルというのはそのためのものだ。きみたちは私を知っているし、私がどんなトラブルや緊急事態が起ころうとそれに対処するためにそこにいることを知っている。私の夜会服のポケットにはキリスト教的な寛容というマントがあり、もし何かうまく行かないことがあればそれをさっと取り出して悪いところを覆うだろう。結局のところ、もし諸君が間違った音を鳴らしたとしても、それを取り戻すことができるだろうか? だから自分を責めず、後悔をあらわにしないでほしい。何かがうまくいかなくても—まあ、私たちはみな人間なのだ。何ごとも、し過ぎてはよくない。ありのままに受け入れるのだ! そして何よりも、『さあ、いいものを聴かせてやるぞ!』などと自分に言いながら演奏会に来ないように。何の効果もないのだから。ただ静かに自分の席に着き、音楽を奏でる。私は邪魔はしないから!」
~ジョン・ラッセル著/クラシックジャーナル編集部・北村みちよ・加藤晶訳「エーリヒ・クライバー 信念の指揮者 その生涯」(アルファベータ)P270-271
厳格な指揮者にしては何と慈しみに溢れる言葉だろうか。
あくまで自然体で良いのだという。しかし、そのために事前の準備に余念なく、誠心誠意をもって取り組まねばならない。
エーリヒ・クライバーの指揮するシューベルトの「ザ・グレート」は、中庸のテンポを保ち、そして毅然としたスタイルで音楽を鳴らす、特別なものだ。ただし、あくまで自然体である。そして、まさに巨匠が、リハーサル直後、若きオーケストラに託した言葉は、自らにも言い聞かせていたものであったことがよくわかる。
・シューベルト:交響曲第8(9)番ハ長調D944「ザ・グレート」
エーリヒ・クライバー指揮ケルン放送交響楽団(1953.11.23録音)
内側で炎をたぎらせるエーリヒ・クライバーの演奏に、文字通りこの人が「信念の指揮者」であったことを想像する。
第1楽章アンダンテ—アレグロ・マ・ノン・トロッポは正統な名演。
しかし一方僕は、弛緩のない第2楽章以下にシンパシーを覚える。いつ終わるとも知れぬ、下手をすると冗長さすら感じさせる交響曲にあって、それがまったくないのである。
そのことは、他の指揮者の録音ではほとんど感じることのない、終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェに至るまでが待ち遠しいと思わせる事実。そして、件の楽章の際に、心の中で「快哉」を叫ぶほど自分が感動し、音楽の喜びに浸っているという事実。
なるほど確かに、カルロスが「これ以上どうしてもうまくやれない」と言った、その正直な心境がわからないでもない。
歌唱が昭和初期の歌謡曲の体。
古き良い時代の遺産だけれど、中には遺物として違和感を覚える人も多いかもしれない。
しかし、その時代にあってこの人の解釈は正統であったのだろうと想像する。
(たぶんに懐古的な側面もあるが)
パリはバロック音楽再発見の最前線にありました。ピアニストのルイ・ディエメール(1843-1919)はパリ音楽院のピアノ教授であり、教え子にはロベール・カサドシュ、アルフレッド・コルトー、アルフレッド・カゼッラ、イヴ・ナット等がいました。フランクの「交響的変奏曲」とサン=サーンスのピアノ協奏曲第5番を献呈された彼は、当時を代表する名手でしたが、古の音楽にも深い関心を抱いていました。彼は、1889年の万国博覧会(エッフェル塔が建設された博覧会)でチェンバロのリサイタルを数回開催し、現在エディンバラのラッセル・コレクションに所蔵されているパスカル・ダスキン作の壮大な2手鍵盤楽器を演奏しました。その後まもなく、ディエメールはジュール・デルサール(1844-1900)と共に「古代楽器協会」を設立しました。デルサールはフランクのヴァイオリン・ソナタのチェロ編曲でよく知られており、ヴィオラ・ダ・ガンバも演奏していました。
当時の著名な作曲家たち、特にヴァンサン・ダンディとカミーユ・サン=サーンスも、ルネサンスとバロックの音楽に深い関心を抱いていました。エドモン・ド・ポリニャック公爵(1834-1901)と妻ウィナレッタ・シンガー(1865-1943、アメリカ生まれでシンガー・ミシンの相続人)は、古楽の熱心な支持者であると同時に、現代の作曲家の主導的な推進者でもありました。(ガブリエル・フォーレは生涯の大半、事実上ポリニャック家の専属作曲家のようなものでした)。
1895年4月23日、ポリニャック・サロンでシュッツ(『女よ、あなたはなぜ泣いているのか』SWV.443)とラモー(歌劇『ダルダニュス』からの場)のコンサートが開催されました。指揮はフランクの弟子で、サン・ジェルヴェ教会の礼拝堂長であり、ダンディとギルマンと共にスコラ・カントルムの共同創設者でもあるシャルル・ボルフォ(1863-1909)でした。
聴衆の中にはマルセル・プルーストもおり、彼は後に「『ダルダニュス』の演奏のような、完璧に演奏された古代音楽」を回想しています。
このプライベート・コンサートについて、フィガロ紙は、歌劇『ダルダニュス』は「現代では比較的知られていない」(控えめな表現で、19世紀に知られている唯一の演奏だった)ものの、「音楽的に非常に興味深い」と評し、さらに次のように付記しています。
演奏は「大成功」でした。サン=サーンス、ダンディ、そしてボルドやアンリ・エクスペルト等の努力と、ポリニャックのような啓蒙的パトロンの支援を受けた演奏のおかげで、フランス・ルネサンスとバロック音楽は1900年頃に復興し始めました。さらに、1860年代以降、バッハのカンタータは、バッハ協会版がライプツィヒで印刷されたばかりの状態で届き、ポーリーヌ・ヴィアルドによってパリのサロン(サン=サーンスやフォーレが出入りしていた)で演奏されていました。
こういう歴史的背景の中でナディア・ブーランジェが登場するのである。
1887年に生まれたナディア・ブーランジェは、新しい音楽と古い音楽が共存する、特にパリのサロンという、プライヴェートな環境の下育ちました。戦間期、ナディアが演奏家としてのキャリアを築くことができたのは、主にエドモン・ド・ポリニャック公女のおかげでした(彼女は教師としてすでに非常に高い評価を得ていたのです)。
ナディアの妹で才能あるリリは、1893年に生まれました。
ナディアは9歳の時パリ音楽院でガブリエル・フォーレに師事、優秀な学生でしたが、4度の挑戦にもかかわらず「ローマ賞」を受賞することはありませんでした。その代わりに、彼女は妹のリリの受賞を支援することに力を注ぎ、ついにリリは1913年、カンタータ「ファウストとエレーヌ」で受賞を果たしたのです。
1918年にリリが夭折した後、ナディアは作曲家としての野心を断念し、教育に専念しました。彼女の生徒には、レノックス・バークレー、エリオット・カーター、アーロン・コープランド、フィリップ・グラス、ディヌ・リパッティ、イーゴリ・マルケヴィチ、ヴァージル・トムソンなど、たくさんいます。コープランドは、「ナディア・ブーランジェは音楽について知るべきことはすべて知っていた。彼女はバッハ以前とストラヴィンスキー以後の、最も古い音楽と最新の音楽を知っていた。和声、移調、楽譜の読み方、オルガンのレジストレーション、楽器のテクニック、構造分析、フーガ、ギリシャ旋法とグレゴリオ聖歌など、あらゆる技術的なノウハウを指先に持っていた」と書いています。
学者肌、というより、教師としての力量に優れたナディアの生み出す音楽は、(当然だが)学究的だと思う。別の言い方をすれば「とっつきにくさ」があるが、一たびその胆をとらえることができると途端に恋しくなる。
「フランス・ルネサンス期の合唱曲集」然り。
ナディアが創設した声楽アンサンブルは当時、皆、パリを拠点にするも、スイス人、ポーランド人、ギリシャ人が含まれていて、彼らはポリニャック・シンガー財団の主催するコンサートで演奏していたという。それこそナディアの手となり、足となり、音楽の再現に最大の力を発揮していたのである。
この際、歌唱の古臭さは横におくことにして、いかにこのアンサンブルの歌が熟成していたかはこのアルバムを聴くだけでよくわかる。
故きを温ねて新しきを知る。
ベートーヴェン弦楽四重奏団が初演したショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲。
1950年代前半、より正確にいうなら1950年から1953年3月のスターリンの死にいたるまでの約3年、ショスタコーヴィチは、内省的音楽とプロパガンダ音楽という二つの極を行きつ戻りつしつつ、徐々に円熟の境地に向かおうとしていた。それらが織りなすコントラストのきわどさを見るかぎり、彼はすでにこれら二つの極を、それぞれに独立した世界として割り切っていたと考えることができる。逆に、芸術家(ないし私人)と職業人(ないし公人)との割り切りは、ことによると彼を精神的に明るく解放した可能性もある。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P333-334
「相対」の世界にどっぷりあったショスタコーヴィチの、内省的音楽の最右翼たる弦楽四重奏曲。この時期に生み出されたのは第5番変ロ長調作品92である。
1956年2月、スターリンの死後はじめて開かれた第20回共産党大会で、党第一書記のニキータ・フルシチョフが「秘密の」報告を行った。いわゆる「スターリン批判」である。こうしてスターリンに対する「個人崇拝」がもたらした帰結が暴露されるとともに、多くの罪なき人々の名誉回復が行われた。ただし、この時期にはすでに、主に大テロル時代に粛清されてラーゲリ送りになった囚人たちの帰還がさみだれ式にはじまっており、ショスタコーヴィチもまた積極的に友人たちの解放のために奔走していた。イギリスと日本のスパイ容疑で逮捕され、1940年2月に銃殺されたフセヴォロド・メイエルホリドの名誉回復への尽力がその一例である。
~同上書P361
同年10月に同じくベートーヴェン弦楽四重奏団によって初演されたのが第6番ト長調作品101。
そして、1954年12月に亡くなった最初の妻ニーナに捧げられた弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調作品108が作曲されたのが1960年だ。(この年、彼はついに共産党入党という運びに巻き込まれる)
さて、ショスタコーヴィチの人生において、誇張ぬきで「悲劇的」と呼べる事件が、雪解けから4年後の1960年に起きる。思うに、1960年はまさに暗転の年だった。この年の3月彼は何を思ったか、亡き妻ニーナの思い出に捧げる弦楽四重奏曲第7番を手がけた。3楽章形式で、なおかつ演奏時間も全体で13分強ときわめて短く、内容的にもごく簡潔な仕上がりである。ニーナが死んで5年、生きていれば50歳。おそらくはそのことをどこかで意識していたにちがいない。
~同上書P378
山あり谷ありこそドミトリー・ショスタコーヴィチの人生だが、何があろうとそれは因果律の中にあるものだ。自らが蒔いた種はみずからが刈り取らなければならない。その原則に基づいて、彼はソヴィエト連邦という国家に(結果的に)貢献せんと、自ら選択して生まれてきたのである。
119回目の誕生日に、だからこそ生み出された数多の名作に浸ろうではないか。
興味深いのは、ベートーヴェン弦楽四重奏曲の解釈の中に、内省とプロパガンダ的要素の二極が刷り込まれているだろうという事実。それは、先妻ニーナに捧げられた第7番嬰ヘ短調作品108に如実だ。この凝縮された形式の中に、何と瑞々しい心境が刻印されていることか。
ストラヴィンスキーの「詩篇交響曲」創作の背景にあったもの。
常に革新という中にあった彼はやはり異才だ。
19世紀が私たちに伝え、私たちがそこから抜け出しただけにいっそうその思想や言語が馴染みのないものになっている時代に開花を見たがままの交響曲形式は、私をほとんど魅了していなかった。自作の『ソナタ』についてと同様に、私は慣例的に採用されてきたさまざまな図式に従うことなく、ひとつの組織全体を創り出したかった。ただし、私の楽曲に、多様な性格を伴った楽曲の連続にすぎない組曲と交響曲が一線を画している楽章順序を取り入れてである。
同時に、私は自分の作品を構成する音素材について考えていた。私の計画では、自分の交響曲は大がかりな対位法的展開をもつはずで、そのためには私の自由になる手段を拡大する必要があった。最終的に私は、合唱と器楽からなるアンサンブルで、それら二つの要素がどちらも相互的に優位を占めることなく同じ重要性をもつようなものに目をつけた。
~イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「私の人生の年代記―ストラヴィンスキー自伝」(未來社)P188
既成概念を壊すとともに、ただそこに新しさを求めたのでなく、すべてがバランスの中にあることを証明しつつ作品として昇華しようとしたのである。だからこそ永遠のベストセラーである聖書からの印象は必然であったし、また心底の信仰というものを音化できる最善の場が交響曲の作曲だったのである。
歌詞について言えば、私はそれを、特に歌われるために作られたテクストのなかに探し求めた。そしてまったく当然のことながら、私の頭に最初に浮かんだアイデアは、詩篇集に助けを求めるということだった。
~同上書P188-189
第一念こそ志の種だ。
ストラヴィンスキーの革新的な思考が現実化したその音楽は、日常の忘却を後押しする代物だった。だからこそストラヴィンスキーは自身の音楽を通じて、人びとを(ある意味)洗脳しようと試みた。「春の祭典」然り、その姿勢は若い頃からずっと変わらなかったものだ。
大部分の人々が音楽を愛するのは、そこに喜び、苦しみ、悲しみ、自然の喚起、夢の題材あるいはさらに「散文的な生活」の忘却のような感動を見出すのを期待しているからである。彼らは音楽に一種の麻薬を、ある種のドーピングを求めているのだ。
~同上書P190
僕自身を振り返っても、確かにその通りだと思う。
旧約聖書の詩篇第39番、第40番と第150番による。
第39番は、魂の苦悩からの懺悔と神のご加護を求める詩であり、一方、第40番は感謝と祈りを表す詩。
(人生とは懺悔と感謝であるとつくづく思う)
そして、第150番は創造主への讃美であり、森羅万象を生み出した根源エネルギーに対する畏敬である。
僕たちの肉体にはその根源エネルギーが宿っているのである。
それゆえに創造主への讃美は、すなわち讃美とほぼ同義であることを忘れてはならない。
(「ほぼ」とするのは、根源エネルギーが絶対であるのに対して、僕たちは相対の中にまみれ過ぎてしまい、せっかくの絶対を忘却しているからである)
冷静沈着、切れ味鋭いブーレーズの指揮にしては、思念のこもる、美しい演奏だ。
日々、懺悔と感謝。
ベルリン放送交響合唱団の重厚かつ崇高な歌に感動する。
颯爽と指揮台に上り、振り返るや「こうもり!」と日本語で一言発し、即座に閃光走る、鮮烈な序曲。奇蹟のコンサートを堪能できた、あの来日公演のアンコールの一コマをもはや僕は忘れることはない。
(ポルカ「雷鳴と電光」ももちろん素晴らしかった)
(もう40年近く前の話)
(世間はバブル経済前夜!)
「さあ万博で景気回復」と投機のブームが巻き起こり、博覧会が始まった時、ウィーンはバブルの頂点にあった。頂点ということはつまり没落の始まりでもある。バブル崩壊は劇的にやってきた。ウィーン万国博の開幕の8日後の(1873年)5月9日、ウィーンの株式市場が大暴落した。4年前に国立歌劇場はでき上っていたが、リング通りに建ち並ぶ国会議事堂やブルク劇場はまだ建設中だった。私たちの知っている壮麗というか大げさというか、とにかく美しい街ウィーンがこしらえられつつある時だった。公園や街路に植えられた木々は、これから育つところだった。バブル崩壊で自殺者が続出し、ウィーンは重苦しい空気に包まれた。そんなとき《こうもり》が初演された。1874年4月5日、株式大暴落から11カ月後のことである。
~音楽之友社編スタンダード・オペラ鑑賞ブック5「フランス&ロシア・オペラ+オペレッタ」(音楽之友社)P63
歴史は繰り返しているのだと思う。
自然現象ではなく、そこには間違いなく人為が働いているのだ。
—あげていけば、キリがない。
今、人類は、いちど近代から現代にかけて、ふりかえるときだ。
2世紀余りの間に、人類文明は“発展した”と教えられてきた。
しかし、近代は発展と進化の時代だったのか・・・?
1773年、マイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが、世界征服25カ条『計画書』を採択し、1776年、国際秘密結社イルミナティを結成して250年余り。
“かれら”は、着々と計画どおりに、人類つまりゴイム(獣)支配を進めてきた。
その“双頭の悪魔”ロスチャイルド財閥とロックフェラー財閥は、ほぼ完全に地球上の国家、経済、金融、産業、情報・・・を独占してきた。
まさに、近代から現代への歴史は、”闇の勢力“による”洗脳“と”支配“の歴史だった。そして、”やつら“の意のままに、戦争は絶え間なく起こされてきた。
こうして、地球上の富は、1%以下の超富裕層に集中独占されてしまった。
それは、情報も同じだ。ゴイム(獣)大衆には、毒にも薬にもならない情報が投げ与えられ、真実はいっさい、明らかにされない。
~船瀬俊介「世界をだました5人の学者」(ヒカルランド)P435-436
世界は知らないことばかり。
否、知らされていないことばかり。(陰謀論などではない)
不況の中にあったからこそ浮かれた「こうもり」が一層人気を博したともいわれるが、世界はいつもそういうパラドックスの中にあるものだ。
カルロス・クライバーの喜歌劇「こうもり」。
半世紀も前のプロジェクトだが、未だ色褪せず。
こんなに楽しい音楽があるのかと思うくらい。
上演を前に、クライバーはいつも不安に襲われた。ミュンヘンのオーボエ奏者クラウス・ケーニヒは、クライバーが《ばらの騎士》では父親の総譜を抱きかかえ、こう言ったことを覚えている。「安心できる場所など、ぼくにはないんだよ」。これは《こうもり》のチャールダッシュの時にも繰り返された。クライバーが高く評価していた指揮者クレメンス・クラウスの録音を聴いたあとで、ケーニヒにこう言った。「こんな風に、ぼくにはできない」。ケーニヒはこう語る。「クライバーの演奏の方が、ずっと説得力豊かに聞こえると当人に言うと、当惑したような表情でぼくを見つめましたよ」。
~アレクサンダー・ヴェルナー著/喜多尾道冬・広瀬大介訳「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記 上」(音楽之友社)P433-434
病的繊細さこそカルロスの真骨頂。この際、彼の性質などどうでも良い。
「こうもり」全曲といえば、これ。
(確実にクレメンス・クラウスを凌駕する)
どの瞬間も気迫に満ち、活気ある音楽が充溢する。聴きどころをいくつか。
第1幕、アデーレとロザリンデの二重唱「ああ、叔母さんのところへ行けない」。
同じく第1幕、ファルケとアイゼンシュタインの二重唱「一緒に夜会へ行こう」。
そして、アデーレ、ロザリンデ、アイゼンシュタインの三重唱「ひとりになるのね」。
さらに、カルロスがクラウスのそれに腰が引けてしまった第2幕、チャールダーシュ「ふるさとの調べは」と、カルロスが思わず吹き出したというレブロフ扮するオルロフスキー公爵が歌うシャンパンの歌「兄弟たち、姉妹たち」だ。
止めは第3幕のフィナーレ「こうもりよ、こうもりよ」だ。
クライバーの新しいトレードマークとなった《こうもり》に対し、マルセル・プラヴィは理解を示した。「オルロフスキーの夜会の場面でさまざまな出し物をやるのはいまや恒例となった。ミュンヘンでは、いくつかのダンス音楽から構成されている、ヨハン・シュトラウスによって書かれたオリジナルのバレエを挿入した」。1965/66年シーズンにジュネーヴで上演された《こうもり》では、《ドナウ・ワルツ》を組み入れたが、これは1974年の時点ですでに慣習となっていた。だが、プラヴィは、音楽のドラマという観点から見て、これは否定されるべきだという見解を示していた。「なぜなら、第2幕の最後には最高に魅力的なオペレッタ・ワルツがあるのに、なぜその前に別のワルツを聴かねばならないのか?」ミュンヘンの新演出によるクライバーの解決法は、プラヴィを魅了した。「カルロス・クライバーは本当にすばらしいポルカ《雷鳴と電光》を指揮した。それに加え、合唱、ソリスト、バレエが一体となって、ウィーンのギャロップとも、パリのカンカンともつかない、不思議な混合物として賛否が渦巻いた、シャンパンと踊りの世界を披露した」。
~同上書P438-439
カルロス・クライバーの方法はいちいち理に適っていたのである。
彼がわずかな録音だけでも残してくれたことに僕たちは感謝せねばならない。